井上章一著『京都まみれ』朝日新書 | 京都暮らしの日々雑感

井上章一著『京都まみれ』朝日新書

注目を集める井上先生の京都論の新著。

 

もっとも、いわゆる「洛中」の生まれ育ちではないから、

生粋の「京都人」(そんなモンがあるんかい?)に対して抜きがたいコンプレックスを抱きつつの、

斜めから見た京都論なのだが、

上手く成功しているとは思われない。

 

既に京都を論じる書物は山の如くに刊行され、

いわゆる「西陣のボンボン」なんかがモノした京都のガイド本も多く刊行されてきているのだが、

どこそこの景観が素晴らしい、とか、

どこそこの食いもんが美味い、とか、

あれこれの伝説伝承がある、とか、

こんな数奇な歴史があったとか、

都の暮らしはこんな風に営まれてきた、とか、

愚にもつかないトリビア(役にも立たない雑知識)をひらけかすばかりで、

そんな雑知識を幾ら集積してみたところで、京都が分かるはずもないのである。

如何にも内容がありそうな勿体ぶった論述を通じて、それらを取っ払ってしまえば、

何も語られてはいないことが分かる。

 

東京「遷都」について、

如何にも京都が中央政権から理不尽な扱いを受けていたという「怨み節」が述べられて、

「首都東京」に難癖をつけているような具合なのだが、

皇室の東京転居に際して、京都に対して「手切れ金」(下賜金)が支払われたのであって、

積極的にか不承不承かは知らないが、京都側がそれを有り難く受領したのだった。

つまり、東京遷都に対して、京都は了解し承諾したのだった。

受領した下賜金を元に、京都はその後の近代化政策に費やしたのだった。

で、今日の京都がある。

それを、未だに難癖をつけて、東京遷都を認めないというのは、

もっと更なる「賠償」なり「慰藉」の配慮を寄越せ、とか、

旧都に対するそれなりの「尊重」と「配慮」を示せ、と、

東京に対してゴネ回っているようなことで、見苦しいことこの上ない。

「京都」であるという歴史的な痕跡が、いわば「利権の源泉」にしようという話なのである。

 

「京都」という都市それ自体のみならず、「京都」という名辞そのものも利権の源泉になるということが、

人々の行動原理に組み込まれているという事実に着目しないといけない。

かつて、新たにたくさんの大学が管設立された頃、

「○○大学」とシンプルな名前でなくて、「京都○○大学」と名付けると、

そのことだけで全国から多くの学生を集めることができる、と、

公然と語られていた経緯がある。

それに倣って、「京○○」と名乗る商品が陸続と生まれ出たのだった。

 

「京都○○」とか「京○○」と名乗り得るその本源は、やはり「洛中」に端を求めないといけない。

「洛中」であればその利権が完全に享受できるところ、

「洛外」では、単に傍流であって、本物ではないと疎外される。

 

しかしながら、その「洛中」と「洛外」を規定したのは、

何も、京都それ自身が自発的・主体的に歴史的に形成したものではなくて、

豊臣政権が京都市中を「御土居」で囲って、

その内側が「洛中」で、外側が「洛外」としたのであった。

この時点で、京都は「城塞都市」と化したのだったが、

しかしながら、城塞都市としてみたところで都市機能としては護るに困難な地政学的特徴から、

結局は放棄されるに至ったわけなので、

「洛中」だからといって、何か他に比べて優越的な特質があったわけではない。

強いて言えば、江戸期以降の京都の地場産業の繁栄から、

都市住民の主流が地場産業従事者に移ったという経過は反映されているのかも知れない。

 

京都は、その旧い歴史から、

「王権都市」であり「宗教都市」であり「職人の街」であり、「伝統文化都市」であり・・・という、

極めて多層的で多彩な側面を持っているのだが、

それぞれの側面でその「利権の源泉」に依拠しているのである。

それら「利権の源泉」の間での協働と競争、相補性と排斥性・・・といった複雑な絡みが、

京都人の心象を形成し、行動原理の契機をもたらせているのである。

 

京都出自の人達は、決して自らを語らない。

「利権の源泉」を詳らかにするということは、死を賭けてもなしえないことなのである。

だから、「イケズ」についても、

その本性が他所からは分からない。

誰もそのロジックを解明できないし、しようともしない。

著者の井上先生も、

分かっておられながら決して口外にはできないことを弁えておられるからこそ、

生煮えの論点を幾分ずらしたところで韜晦しておられるわけで、

何と言うか、、「こんな論議で学者生命を危機に堕とし込まれては堪らない」という、

そういった「護りを固めた」一著なのであった。