植木裕子さん(いまじゃ完全に姉として慕ってるのでおね〜ちゃんと呼んでます!)に誘われて、表参道でディナーをしたあの日、2023年3月11日。


「誰かのお役に立てれば」と言う思いで今まで自分なりに活動をしていましたが、裕子さんたちと話をしているうちに


「自分を全く大切にしていない」


と言う事に氣付きました。いわゆる


「自己犠牲標準装備」でした。


誰かに頼まれたら「NO」とは言えない氣質。そして一番厄介だった信念が


「自分の評価は、他人が決める」


と言った幻想でした。ですから、常に毎日毎日他人の顔色を伺いながら、活動をしてきました。


バレエ界(だけではないかも、ですが)なら当たり前なのですが、役を決めるにしても、昇進するにしても、常にトップにより決められるわけですから評価を氣にするのは当然であり、それが全てとなります。


私が悩んでいたときに、裕子さんたちが一言


「え?それってけんちゃんの問題じゃなくて、それを勝手に評価する人の問題でしょ?」


と言われた時から、どんどん洗脳から解き放たれたかの様に、少しずつ目覚めていき、遂に大きな決断をすることになる一年の始まりがスタートした、と言うわけです。


裕子さんは私の先輩にあたる方ですが、裕子さんの年代はちょうど日本のバブル期にバレエ界で大活躍していた方々が揃っていましたが、裕子さんはその時には日本にはいなくて、ヨーロッパで活躍していました。いわゆる「海外組」の先駆者です。



実際に会ってゆっくり話をしたのは、なんと表参道で会ったのを合わせると3回しかなくて!


しかし、その表参道の夜が私の方向性を変えることになりました。


自分の中にある「違和感」と向き合うためのスタートでもあり、これがまた「封印」していたものと向き合うフェーズでもあったので、ここからは本当にビックリする事が山ほどありました。


長年、私自身が私らしくない決断をしてしまった故の数多くの「違和感」と向き合う事になったので、その意味において「ビックリ」してしまったのですが(笑)


その違和感を手放すために、かなりの「清算」が必要になり、それには相当勇氣が要りました。なぜならその「違和感」ですら「有り難い」みたいに感じていたので、手放すのが怖かったと言いますか…


ある意味、何かに「依存」をしていたのだと思います。


しかし


「もう、そんな依存…要らないんじゃない?」


と目を覚ましてくれたのが、裕子さんをはじめとする仲間たちでした。



自己受容コーチングが進むにつれて、自然と私は東京を離れ、仙台に戻る事が出来ました。


そして仙台で私を待っていてくれた家族、子供たち、そしてスタジオ。スタジオは全てのレンガを撤去して外壁を大々的にリフォームしました。



実は私には「全てが備わっていた」のにも関わらず、なぜか「足りない、足りない、修行が足りない」と追い込んでいて、それにストップをかけてくれたキッカケが2023年3月11日。


闇を見たから、光が見えた…


本当にありがとう!救済してくれた皆さまに本当に感謝しています!



左右木健一