昨日は植木裕子さんと1時間半ばかりインスタライブを配信しました。
かなり長いのですが、もし良かったら見てください!
私は「課題の分離」を学んだので、ざわつくニュースを目にしても動じなくなりましたが、たいていの方はイライラしたり、不安になったり、怒ったりすると思います。
たとえばコロナ禍の時、イベントなどをやると
「医療関係者がかわいそうだと思わないのか!」
と怒りをぶちまける人たち、いましたよね?今なら
「あれはなんだったのか?」
となりますが、あの当時は目くじらを立てて怒り狂う人たちがいました。
こういう時こそ「課題の分離」が役立ちます。
医療関係者が「かわいそう」と言って、では医療に携わっていない人が果たして何が出来るのか?一歩も出歩かず、人と接しなければ良かったのでしょうか?
実際はどうでしたか?気が狂ったかのようにマスクをして消毒して、出歩くこともなく、ワクチンを何度も打ち、外食もしなかった人がコロナにかかりましたよね?どんなに努力をしても、です。
ですから「どうにもならない事」や「自分の専門分野以外の事」を自分の感情だけで怒り狂い、他人の行動を非難すること自体が「あれ?ちょっと違うのでは?」と「課題の分離」を学ぶと理解出来ます。
見ず知らずの他人に限らず、身内ですら、アドバイスをしたり、心配をしても、その課題を乗り越えていくのは本人次第なんです。そしてこれを言うと決まって
「冷たい人。思いやりのない人」
と考えてしまうのですが、決してそうではない。
乗り越える課題は人それぞれ違うわけですし、それを自分の尺度で強引に強制する権利は誰にもないわけです。もしあるとしたら、それは「恐怖政治」です。そのような人間関係なら、距離を置いたほうがお互いの為に良い。
私が学んで腑に落ちたもう一つの理論が
「事実と解釈」
例えば虹が出たとします。
それが事実。それ以上も以下もない。
しかし解釈はさまざまです。
「綺麗!」
と思う人もいれば、虹の前に雨が降っていたとして傘を持たない人なら
「濡れて嫌だ!」
と思う人もいれば、昔、虹が出た日に嫌なことがあった人はその虹をみて
「トラウマが手放せなくて辛い」
と泣くかも知れない…これが「解釈」
しかし人間は誰か権力のある(もしくは声が大きい人)の「解釈」を「事実」と受け止めて勘違いする場合がある。
「この人は権力があるからみんなも同調しているから、ここでは逆らえない」
などと、空氣をよんで偏った「解釈」を鵜呑みにしてしまう…これは非常に危険です。
そんな話も含めて、裕子さんが最後にこんな名言を残してくれました!
「空氣は読むけど、合わせない」
そうです。沢山の人たちがいて
「私は嫌だ!それは嫌いです!」
とか言えないシチュエーションはあると思うから、そこは空氣を読んでストレートには言わない(自己受容のメンバーたちは、嫌なものは嫌!とハッキリ言ったりします、笑。しかしそれは理論がわかるから出来ること)
大事なことは、違和感があるのに、無理矢理合わせようとしないこと。合わせようと我慢、我慢、我慢となると心身共に疲弊して、鬱になるから(日本は特に…)
「世の中、そんなに我慢しなくて良い事もある」
と言うのがわかると、本当に楽しいです。
小さな「幸せ」小さな「ある」を見つけていけると良いですね。
左右木健一