「本来の自分とのギャップを感じている理由を探りたかった」
と言うのがキッカケでしたが、では具体的に何だったのか?
まず幼少期の私は天真爛漫でした。しかし今とは違って多様性を認める、なんて皆無だった「昭和」で育ったがためにまずは
「人と違う」
と言う事で相当いじめられていました。
まずは「左右木」と言う苗字。
男のくせにバレエをやっている。
プラス劇団ひまわりに入り、学校休みがち。
「変わった子」として学校教師からも嫌味を言われ、私がイジメられているのを見て教師からは
「いじめられるのは自業自得。お前が悪い」としか言われず、イジメの現場を放置され…
ところが「自己受容」を始めると
「そのイジメられた原因は、自分の内側が外側に反映されただけであり、すべては自作自演」
と教わります。しかしそれは
「自作自演に導いたお前が悪い」
と言う善悪で判断されるのではないのが「自己受容」の特長でもあります。
では、それはどう言う事か?
例えば「バレエは女が習うべきで、男が習うなんて」と言われた場合。
そのように考える人たちの「価値観」は全人類に当てはまるわけではないです。ですから本来ならばそんな事を言われても「課題の分離」さえ理解していれば
「それは相手側の主観であり、自分はバレエを習う事に誇りを持っている」
となるはず。しかし自分の中で少しでも
「いや…もしかして、バレエを習っている事は悪いことなのか?」
と自分の内側に疑問を抱いた瞬間に、外側でも
「バレエを習うお前が悪い!」
と言う人たちに囲まれてしまいます。すなわち「自分は悪いんだ」と言う「願望」が叶ってしまうパターンなわけです。
これが「自作自演」のからくり。最初は良く理解が出来ないですが、全てに当てはまります。
例えば「相手に自分の氣持ちをわかって欲しい」と思っていても、心の中で少しでも
「自分の氣持ちは、もしかしてわかってもらえないかも」
と思うと「わかってもらえない」現象が起きます。
これは「お試し」だと思うのですが、この「お試し」は自分が手放さないと何度でも辛い現象が起きます。そしてだいたいは自分では氣付かないです。
「自分がこんなに頑張っているのに、理解してくれない相手が悪い」
と原因を外側に向ければ向けるほど、事態は悪化します。
「相手がわかってくれない」のではなく
「自分が自分をわかっていないから、その反映が外側に出てしまっただけ」なのです。
そして外側にしか原因を見出さないと「他者責任」が生じます。
人を非難したり、中傷する事で自分が傷つかないようにして「自分の内側にあるくすぶり」に蓋をしてしまう…
ですからそのような「自分責め」を手放していけば、相手から責められる現象も起きなくなるので現実が好転していくわけです。
「こうあるべき!」と言うルーティンの「縛り」も手放すことを「許可する」と言うのも学びました。
今は本当に穏やかで、毎日が幸せです!
YouTubeでも話しましたが「自己受容とバレエ」を繋げて、子供たちや大人の方が「本来持つべき魂の声」に氣付けられるようなレッスンを指導していこうと思います。
左右木健一