以前、マレーシアにて現地の方とお食事した際

「君みたいに英語をそんな風に喋る日本人、初めて会ったよ!僕は日本企業(誰もが知る某超一流企業です)に勤めていたけど、日本人たちの英語がたどたどしくて…コミュニケーションが取りづらくて本当に困ったよ!」

と言われ、唖然としました。

私の英語は、ただ単に中高で学んだ英語だけで、別に英語塾に通っていたわけでもないですし、勉強という勉強をしたためしがない…しかも文法的に言えば、たぶん突っ込みどころ満載英語のはずです(このブログでさえ、日本語が怪しい 笑)

そんな高卒の私よりも、一流大学を卒業して、一流企業に勤める人の英語力が、私より劣るなんて…ありえない話ですよね?

私の場合は、16歳でいきなり英語が必要な環境に放り出されたのが良かったのかも知れません。

日本人の女の子たちは10人ほどいましたが、ほぼ毎日別行動。従って日本語はほぼ喋る機会もなく、だいたい韓国人とアメリカ人と一緒にいましたし、ツアーのルームメイトもアメリカ人でしたので、嫌でも英語で喋る必要がある…

「文法的に間違っている」とか
「発音が正しくない」とか

そんな流暢なことを言っている場合ではない状況の場合、たいていの人たちは私が話そうとすると、耳を傾けてくれました。

このシンガポールのコンクールでも同じ。


いきなり

「スピーチをお願い!」

と言われて、破茶滅茶な英語でしたが、長々と喋ってしまいました。

誰ひとりとして

「あなたの英語、破茶滅茶!」

と言わない寛大なネイティブの方達に感謝です。

きっと心の中では

「ん?なんか変な英語」

と思っていたかも知れませんが(笑)それよりも私が「伝えたいメッセージ」を破茶滅茶なりにガンガン喋っていたことが、むしろ受け入れられた感じがしました。

前回のブログでも書きましたが、日本という国は目立つと徹底的に叩かれます。

なんでも「平等」に…

私はこの「平等」という言葉こそ「不平等」だと思っています。

「先生がえこひいきする。平等に教えろ」

という人がいたりしますが、よくよく考えてみて下さい。

20%のやる気の子。
50%のやる気の子。
100%のやる気の子。

が、いた場合、もし自分が100%のやる気で全力で頑張っているのに、サボってばかりの20%のやる気の子と自分が同じ扱いだった場合…果たしてそれは「平等」と言えますか?

100%全力で挑みたいのに

「足並み揃えなきゃいけないから、目立つな!」

と20%のチカラしか出さない子のレベルまで引き下げる必要、ありますか?

実力もあり、謙虚に頑張る人がまるで「悪」で、実力もなく、頑張らない人たちのレベルが「善」として形成される世の中だとしたら?怖くないですか?

「英語が堪能」にも関わらず、その帰国子女たちのスキルを封じ込めるような学校教育が、一刻も早く良い方向に向かうことを、切実に祈っております。

左右木健一