私のサポートコーチをリブログさせていただきました。
とても共感する内容だったので、今日は少し自分のこととして書いてみようと思います。
コロナ前からコロナ禍の最中、指導をする立場として
「解剖学を学ばなければ、生徒を怪我させてしまうのではないか」
そんな不安を、私は長い間抱えていました。
また
「ひとつのメソッドに忠実でなければいけないのではないか」
という不安もありましたので、とりあえず勉強はしました。
しかし実際には、同じメソッド同士でさえ意見が分かれ、時には激しく、醜く言い争っている場面も目にしてきたのに…です。
コンクール審査員同士でも、教師間でも、トレーナーでも、常に善悪でジャッジする傾向があり…
その当時の私は、その争いに負けないように
「自分よりも専門知識があるように見える人」
「声が大きく、断定的に語る人」の言葉を
「正しいエビデンス」として信じてしまったこともありました。
今思えば、それも「間違っていない」と言う「安心したかったから」という、不安からくる選択だったのだと思います。
エビデンスによる安心感。
特定の理論やメソッドによる安心感。
宗教やスピリチュアルが与えてくれる安心感。
それらは決して否定されるものではありません。
けれど同時に、それが「絶対」だと思い込んでしまった瞬間、自分の感覚や判断を、外側に明け渡してしまう危うさもある。
「これは本当に自分の考えだろうか?」
そう問い直せるかどうかは…
自分軸を取り戻せているかどうかに、深く関係している気がします。
実はその「不安のフェーズから離れようとすること」自体が当時の私にとっては、とても怖いことでした。
いわゆる
「仲間から離れてしまうのではないか」
「今まで評価されたものが崩れ落ちるのではないか」
と言う不安。外側に頼らないという選択は一見すると強さのようで、実際には大きな不安を伴うものだったからです。
何かにハマってしまい、抜け出せないパターンはありますし、抜け出すには相当の覚悟や勇気が要ります。それにハマっていた時期が長ければ長いほど。
けれど、私もさまざまな出来事が重なり、強制的に立ち止まらざるを得なくなりました。
遠回りをして、傷ついて、揺れて、それでも時間をかけてようやく今
「外側に頼らない自分」
を、少しずつ取り戻せてきたように感じています。
エビデンスも、理論も、学びも…
今の私は「道具」として大切にしています。
依存もしませんし、特定のコミュニティに属することもしていません。
最後に判断するのは
自分の感覚。
目の前の生徒の状態。
積み重ねてきた経験。
その軸を手放さずにいられることが、今の私にとっては、何よりの安心です。
私のように、何かにあまりにも傾倒しすぎて悩まれておられる方がいたら、自分の胸に手をあてて聴いてみてください。
「それは、あなたが本当に望んでいる事ですか?」
と。
左右木健一
