こどもに思いっきり関わっている中学校教員として思うところがあり、リブログさせていただきました。
さとうみつろうさんの悪魔とのおしゃべり風に言わせてもらうと、今日は教員スーツを着た私が教育について語ります。
そんな私が思うところは「学校指導」というところです。
学習指導要領でも21世紀を逞しくいける生きる力という大きな方向性は個人的には間違えていないと思うし、知識の詰め込みではなく、自ら課題を解決して行くアクティブラーニングもいいと思う。
大学入試も抜本的な改革に向かっている。
課題はあるが意味のあるチャレンジだと思う。
学校教育は時代の要請、特に経済界の強い要請を受けて学習指導要領が変遷してきている経緯もあり、今回の学習指導要領の改定もそういう意味では社会の要請を受けた学校指導の側面は当然あると思う。
しかし、生きていく意味を繰り返し繰り返し捉え心を潤す術のようなものは一部のスペシャルな教員や一部の特色ある学校、部活動に限られているのが現実だと思う。
社会や人生の縮図的な事を体験し成長する場が学校だと私は考えている。
様々な体験で何をどう学び、どうして生きたいのか?
大人になってから高額のセミナーに行かなくても、良質な書に触れさせ、心の糧にして行ったり、そこで感じた事をシェアしたり、お金に関するブロックを外し、生きた経済を学ばせるとか、人のコアな部分にはたらきかけ、自らが学んでいける事が大事なのだと思う。ここでいう学びとは教科の学習だけをいうのではない。
私の感じているような事は、実際に行なっている学校もあるのだろうが、どんな学校でもとなると世間の常識の最大公約数的なところが公教育の意味あいからすると実施するのは難しいのかもしれない。
ところで50を過ぎて最近の日本人(家庭教育)で決定的に足りないのが大いなる力を敬う敬虔な気持ちではないだろうか?そう感じている。
こういうことに強いアレルギー反応が社会にはある。
一種の宗教アレルギー。
日本で宗教の事を持ち出すと、怪しく思われることがあるけれど、「神」でも「お天道様」でも「良心」でも呼び方はなんでもいい。
それぞれが心の中で畏れ、大事にするよりどころとなる何か。
大人も含めてここに一本ビシッと真のある人は、社会的に成功しているだけでなく、
「おかげさまで」
の気持ちで社会と繋がり常に「幸せ」を感じている。(松下幸之助さん 竹田和平さんなど)
ここは生きていく上で絶対に外せないところではないか?
そんな事を家庭でも学校でも堂々と語り合える世の中になるといいな!
そんなことでこうして、ブログで繋がったり主張している次第です。
※だらだらと長文ですいません。最後まで読んでいただいてありがとうございました!
※個人的には、「ばれなきゃいい」なんて陰でコソコソ悪いことやっていたら、悪いことほど、最悪のタイミングでバレるよ!これ世の中の真理だから!って生徒には言ってます( ^∀^)