例えばそれが闘病の為であれ、其々の孤独の中、精一杯生きる意味を見つけようと朝が来るのを待つ人達が居ます。

病魔と闘っている方々は、身体が沈んでいく様な倦怠感に襲われながら、それでも自分なりに精一杯何かを探して、生きているのです。

治療法も確立していない難病を抱えながら、明日を信じて孤独な闘いに耐え忍ぶ人のある事を、意識の朦朧とする中、それすら出来ない人のいる事を忘れてはなりません。

 

それらの人達のブログを拝見する度事に、彼らが、病の床にありながら、幸せの本質を捉えようと家族や他人に愛を注ぎながら明るく生きる姿には,頭の下がる思いです。

そのご家族に思いを馳せれば、言葉を失い、天を仰ぐのみです。

 

私には何も出来ません。

 

私にしても自分の意思を無視して、例えば、ただ「肉体」が生きているだけの日常の連続だとしたら、それだけは避けたい屈辱だと思うのです。

 

何かをなさねばなりません。

 

ましてや、私の様に好きで自分の道を選んだ人間には、多少の病の気怠さを抱えながらも、自分の仕事をし続ける事で、それが誰かに勇気を与え事ができれば、それこそ私にとっての生きている証であります。

 

そんな折、養成所の生徒の指導を引き受ける事にしました。

 

所詮、演技は教えるものでも,習うものでもありません。

では、生徒たちの魅力を抽出し、付与するために何をすれば良いのでしょうか。

 

どうやら旧態依然とした実証的な演技指導では、「描写」するだけの演技しか生まないことの方が多いようです。

「描写」は単に実証的、客観的な知性がつくる安易な方法です。

そこには類型的な演技しか生まれないのです。

とすれば、今後若い君達に望むものは、その様な「描写」ではなく、先ず、君達の主観的知性を働かせ、それぞれが抱え持つ知的感受性と想像力から産まれる「描写」とは異なる「表現」と言う舞台活動です。

 

その為には、生徒の君達は先ず己を知ること、知的感動を味う事が何より大事になるのです。

もし、君達が一編の詩に落雷を受けたほどの感動を覚えたとすれば、それはこれまで気づくことのなかった君達の眠れる美意識を覚醒させたのであり、自ずから知的感受性を獲得したことなのです。

ここから、俳優生活がやっと始まると言っても過言ではありません。

 

さあて、こらからは君たちとどう付き合うか、暫く抗がん剤の反作用との戦いなぞは気力で投げ飛ばして、平和な闘いへとのめり込む事になるようです。