早速,私にとっての第二の自家用車、電動自転車に乗りかえることにしました。

 

 

 

断っておきますが,これは決してママチャリではありません、ジジチャリなのです。

ベンツとはえらい違いですが、目線をちょっと変えれば随分と楽しく、健康にも大いに役立てるものです。

電動自転車の初乗りに出ました。

フラフラとして二度、コケた。

 

私は、今まで自動車を運転しながら随分と、自転車やバイクを邪魔扱いしていたことに気付かされます。

自転車といえども車道を走らなければならない、先ずこれには同情します。

日本では自転車専用道路は狭く少なく、やむを得ず車道の中央寄りに走る自転車が多くなるのも、当然と言えるかも知れません。

だが、無神経に横断歩道を信号が赤にも拘らず、急に斜め後ろから、こちらを一瞥もせず、堂々と突っ走って渡る自転車には閉口します。

中には、スマホを使用しながら我が物顔に渡って行く人も、稀に見かけるのですから驚きます。

バイクにいたっては、あたかも己の私用道路と勘違いしてるのか、乗用車の間を縫うように、蛇行を重ねて走り抜けます。

勿論、これはごく一部の人達に限られてのことでしょうが、度々遭遇することも確かです。

 

ところが、自転車側の目線から捉えてみますと、今度は乗用車のほうが邪魔くさいのですから面倒です。

横断歩道で一時停止はしない、やたらクラクションは鳴らす、また中には交差点でさえ、一時停止もせずに猛スピードで走り去る車、おまえさん、それじゃあまるでパトカーじゃあないのと愚痴の一つも言ってみたくなります。

これらは安易で卑近な例かも知れませんが、ちょっとした目線のちがいで感情も思考も一変し、同時にそれらの想いを共有することが出来るのです。

 

一億二千万人の全ての人、それぞれが違った目線を持っています。

そしてどうやら,自分の目線こそが正しいものだと思い込んでいる人が確かにいるようです。

それは誰しもが密かに誤って隠し持つ、「天上天下唯我独尊」と言う目線の、救いようのない孤独感なのです。

だが、これら知を欠き己を知らぬ人達によって、やがて和を乱し、争いを呼び起こす事にもなるのです。

哲学者ソクラテスの目線に、「不知の自覚」という言葉があります。

自分に知識がないと気づいた人は、それに気づかない人より偉いのだと説くのです。

つまり、自分が無知である事を知っているという眼線こそが、必要なのです。

 

この、不知の自覚の現象は、演劇界にも多く見られるようです。

その理由の一つとして、俳優の仕事には、優劣を判定する確たる尺度を持たない事にあります。

スポーツ選手は、その成果を数値化し可視化することが可能であるのに比べて、それを持たない俳優の価値は他者の感受性に左右されがちなのです。

自分自身にじっくりと客観的眼線を向ける事を忘れて、ひたすら我が道にこだわる演技者は、根拠のない自信過剰と自己陶酔という闇に棲みつき、抜け出すことすら拒否します。

何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しなのです。

 

世阿弥の花伝書の中に、「離見の見」という教えがあります。

これは、俳優は常に、自分自信の演技を、前後左右から距離を保ちながら客観的に見る目線を持たなければいけないという教えです。

賢明な皆様にはもうお分かりでしょうが、これは私から後輩俳優達への苦言と共に、私自身への戒めの言葉でもあります。

 

現在、SNSと言う目線が一瞬にして全世界に送信される、その利便性は大いに評価すべきですがその一方で人々は氾濫する情報過多に惑わされ、カオスを招いています。

何が正しくて、正しくないか、判断する知を保つ事は、甚だ困難な時代になって来たようです。

いたずらに人心を混乱させる情報を見聞きしない為にも、時には目を深く閉じ耳を塞ぎ、静かに自分に問いかけ、専一の気を乱すことがないよう、心がけるべきです。

 

そして今、知を失った一国のリーダーのように、残酷無惨な歴史から学ぶ事すら拒否し、その狂気によって戦争へと突入する暴挙は、如何なる理由があろうとも許してはなりません。

嗚呼