2014年 初詣 | 船橋SE夢追人のブログ

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 私は長野県で生まれ、3歳から結婚当初まで東京下町に住み、子供の成長に合わせ、千葉県船橋市に移住し25年経ちました。

1月12日に初詣に行きました

市川市にある法華経寺というところです
存在しているのは、知っていましたが、行ったのは初めてです
思った以上に広い境内でした



以下が、ホームページよりの説明です

正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。 中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館 を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。時に鎌倉時代 の中期、建長年間(1249~55)頃のことです。 彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫○です。若宮の富木 氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両 寺が合体して法華経寺を名乗るのは、戦国時代の天文十四年(1545)以後のこと です。 富木常念は出家して日常と名乗り、法華経寺の初代貫首となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。そ して千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫首となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、 法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力 な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。日祐は 胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経 寺の基礎をつくりました。そのご、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰され る寺院となります。
法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立正安国論」「観心本尊妙」の国宝や重要文化財をはじめと して多数の聖教(仏典)が保存されています。これは千葉氏のもとで分筆官僚の任にあたっていた 日常が熱心に整理保存に意をそそいで依頼、寺内の宝蔵や坊で厳重に保存されてきた結果です。 現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保存されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。 また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書は発見されました。これは紙背文書と言い ます。これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著者の料紙として日蓮が使用 した結果、偶然にのこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国 社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。