広島・尾道の古寺と福山城へゆく | ブログ版『大和川水紀行』

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大和川流域の自然やイベント、祭事など訪ねた紀行記です。

JR尾道駅から山陽本線の北東方に古寺が点在している。


持光寺の山門は竜宮造りの石門で出迎えてくれる。

尾道はその昔すばらしい技術を持った石工らが活躍し「石のまち」として全国に名を馳せていた。


梅雨の季節にはあじさいが咲き誇り、別名「あじさい寺」と呼ばれているほか、自分で粘土を握って仏を作る「にぎり仏」が体験できるお寺としても有名。

天寧寺の山手に三重塔がある。

貞治6年(1367)に足利義詮が建立した国重文の塔婆(海雲塔)があり、建築当時は五重塔だったという。

大宝山(標高140m)の中腹にある大宝山権現院千光寺は、806(大同元)年に弘法大師により開基され、多田満仲公が中興したという。

朱塗りの本堂は「赤堂」とも呼ばれ、境内には巨石が点在している。

その一つの「玉の岩」は岩の頂に光る玉がこの一帯を照らしていたとの伝説がある。
そのことから尾道水道は別名「玉の浦」とも呼ばれ、境内から尾道港を一望できる展望は尾道を代表する風景の一つだ。
参考:

千光寺

https://www.senkouji.jp/


「玉の岩」の頭上をロープウエイが往来している。

その山ろく駅への下る途中、猫の置物など並ぶ「猫の細道」がある。

山ろく駅の隣には尾道で一番古い「艮神社」(うしとらじんじゃ)が鎮座している。


JR福山駅に降り立つとホームから福山城が間近に見える。

福山城は徳川家康のいとこである水野勝成が備後10万石の領主として入封・築城されて

当時は石高に比して破格の規模を誇ったという。

現在は城郭の中には天守、月見櫓などの建造物がある。

本丸南側に建てられた御湯殿は藩主が使用するための風呂場だ。
御風呂は現代でいうサウナのような蒸し風呂だった。

南面した物見の間は高欄(こうらん)を廻らて石垣上にせり出しており、藩主が湯上りに涼を取りながら城下を眺望していたという。
ただ初代藩主・水野勝成は使用していた可能性は高いとされているが、2代藩主・勝俊以降の藩主は湯殿として活用されたかは不明という。
1874年(明治7年)には料亭として開設された。

建物自体も福山空襲で焼失して外観復元されたものだ。


福山城の北東に位置する福寿会館には、江戸時代には福山藩の御用米を納める五千石蔵が軒を連ねていた。

昭和初期に「福寿会館」として平屋の「数寄屋(すきや)造り」の本館と洋館と庭園に西茶室・南茶室が建てられた。

本館の大広間で「ひなまつり」が開催されていた。

南側の広縁からは、庭園越しに城を眺望できるように設計されており、目前に天守閣を望める。
 

参考:

福山城博物館
https://fukuyamajo.jp/

1620(元和6)年に福山城はもともと田畑や湿地帯が広がる地域に築城が始まった。

陸路と海路を防御する「海城」として堀から瀬戸内海と結ぶ入川を開削し、干拓とともに「城下町」を広げていった。

かつての内堀を利用して、福山駅と線路がつくられており、駅と線路は二の丸と三の丸の間にあった堀跡に設けられている。

道路として埋め立てられた入川の名残が「入船町」にある。

 

 

福山城の内堀と外堀は明治時代から埋め立てが始まり、現在は部分的に石垣が残るのみだ。

福山駅南口では、舟が瀬戸内海の入り江から水路を通り城の敷地内に着岸できる「舟入」の遺構が発見され、その復元された姿がある。