小早川秀秋殺人事件という考え方でいくと、「秀秋は家康が恐れるほどの俊秀だった」という証明が不可欠になります。秀秋は俊秀だったという証明を本人の出自から関ヶ原合戦にかけて証拠調べというかたちでこれからやっていくわけですが、定性的な分析では必ずしも時系列に忠実である必要はありませんから、あくまでも定性的な意味に重きを置いてまいります。
開廷を宣すると同時に秦野裁判長が長井検事に確認しました。
「本日のテーマを先に明かしてしまうことになるが、小早川秀秋が小早川隆景の養子になるということの意味は、豊臣家の養子ではなくなることによって継承権を失う点にあって、長井検察官の十八番の結果が目的の法則に照らすと、ずばり継承権の放棄が目的になるわけだ。しからば、何のためかといえば、秀秋を秀次の二の舞にしたくないと考えるのが素直なやり方と思う。しかし、それをもって『秀秋は家康が恐れるほどの俊秀だった』とするには根拠として十分ではない」
「もちろんです。しかし、根拠はきりがないくらいあります。これから可能なかぎり根拠となる事実を積み重ねてまいります」
「そうしてもらおうか」
秦野裁判長は長井検事に注文をつけてから、本題に入りました。
「豊臣家の人間でなくなって、継承権などとは無縁の小早川家の養子に転ずるだけで、秀秋の身の安全は保証されるのだろうか。血縁からいうと北政所(お寧・高台院)の系統になるわけだからね。秀頼継承のためには目の上のタンコブである点では変わりがない」
「そうです。そこが重要なポイントの一つです。しかし、本検察官の考えとは観点が少し違います。秀秋のDNAという観点から豊臣家の構成員をプロファイリング的に分類すると、北政所の系統と秀吉・日秀(智子)の系統、淀殿・信長の系統に分類できます。秀長・旭の系統は秀長の死で事実上断絶しました」
「秀吉・淀殿の系統といわないのは秀頼が不義の子だからだな」
「おっしゃる通りです。だからといって、淀殿・秀頼の系統といわないのは、関白秀次の粛清と秀頼後継という大事件にからんでくるためです。秀吉が秀頼を後継に選んだのは織田信長の名とその後継であることを印象づけるためと本検察官は考えるためです」
「すると、淀殿・信長の系統という概念は秀頼の誕生に端を発するものだから、秀次を粛清し、生まれたばかりの秀頼を嗣子に定めたのは豊臣政権イコール織田政権というイメージを際立たせるためだった、と、そう理解するが、それでよいのかな」
「はい」
「秀頼は単なる道具ということか。事実かどうかは別として、一つの考え方ではあるな。秀吉の本心としては秀頼などに本当は跡を継がせたくないわけだ。しかし、豊臣政権は織田政権との折衷だというイメージを広める道具に使えるのは秀頼だけだった。しかも、後継指名の根拠としては秀吉・日秀系統の秀次などよりずっと強力だ。だから、不義の子と知りながら成敗しなかった。すると、北政所の系統に属する秀秋はどういうことになるのかな」
「定性的意味合いからすると、北政所の系統が、天正二十年をもって断絶した秀長・旭の系統に近いのです。だから、本当は危なかったのです」
「小早川隆景が動いた動機はそこにあるのだろうか」
「そうだと思います。黒田官兵衛の斡旋で秀秋(当時の名は秀俊)を毛利家の養子に迎えることが打診されたのですが、小早川隆景が配慮して、毛利元就の四男穂井田元清の子・秀元を毛利家の嗣子として秀吉に認知させ、秀秋を自身の小早川家の養子に迎えて一件落着させたのでした」
「それが意味するのは?」
「次にねらわれるのは秀秋とわかっておりますから、心ある大名ははらはらしていたと思います。以下、小早川秀秋の扱いについて論述しますが、その冒頭に興味深い記述を引用させていただくことにします」
長井検事の論述……。
外見と中身が一致しない秀秋の悲劇
《小早川秀秋がどのような容姿だったのかというと、ウィキペディアに掲載されている高台寺蔵「絹本着色小早川秀秋像」が最も多くの人の目にふれているのではないだろうか。小早川秀秋の関係者にはもうしわけないが、高台寺蔵「絹本着色小早川秀秋像」を目にした瞬間、いかにも頼りない感じを受けて、これでは魯鈍説に軍配が挙がったとしてもしようがないと思ったものである。
しかし、六頭身しかなかったといわれる徳川家慶の例もある。身分は高いが見栄えは最低で、それでいながら中身はあっと驚く開明の名君だった》
長井検事の論述を聞いて陪審員席、傍聴席から声にならない驚きのどよめきが起きました。世上に伝わる徳川家慶は「そうせい侯」という渾名があるほど無能な公方と思われているからです。しかし、明治維新政府は自分たちの功績をより際立たせるために、幕末期の徳川政権を矮小化する目的でかなりの事実を隠蔽してきました。もちろん、明治維新政府の政策を先取りするような事実ばかりです。やり方のあざとさは戦国時代の比ではないのです。
陪審員と傍聴者の驚きがつづく中で、長井検事は論述をつづけました。
《徳川家慶は大御所家斉が他界すると時の老中首座に命じてオランダから蒸気機関車を輸入しようとした。当時の海運力では喜望峰をまわるにせよ、ホーン岬を経由するにせよ、蒸気機関車のような体積のかさばる重量物は運搬できないため成立しなかったが、家慶は最後まであきらめずペリー艦隊が実物の四分の一大の蒸気機関車、炭水車、客車、レール一式を持参するのを見届ける寸前に他界した。見届けることはなかったが、当時としては四分の一大に縮小して運ぶのが海運力の限界だった。四分の一大の鉄道一式が持ち込まれた事実は広く知られておりながら、それ以前にオランダに引き合いを出した事実が軽んじられているために、その意味することの重大性が理解されない。私の場合もここ二、三年以内のある日あるとき、何かの本で「当時の船の運搬能力」という文言を見つけて、はじめて「あっ」と驚き、気づいたのであった。当時の世界の海運界に蒸気機関車を無事に運搬できる能力を持つ船舶があったとしたら、日本は明治維新を待つまでもなく文明開化の時代を迎えていたはずである。
家慶の人物を評価するうえで外見のみで判断したり、松平春嶽(二流の名君)あたりの凡庸な評価をあたかも一級資料であるかのように鵜呑みにしてはならない。小早川秀秋の人物評価にも、同様のパターンとしてそれが当て嵌まるのではないだろうか。
このような思いで小早川秀秋に関する書物を物色したところ、永井芳順著『小早川秀秋抄伝・咲き残す香こそ惜しけれ』のうち「悲しむべし悲しむべし」という見出しを持つ次の一文が目に留まった。
【三原での婚儀に関連して、ある歴史作家は『豊臣家の人々』の中で、小早川秀秋となった金吾秀秋を痛烈にこう描写します。
『……あのあほうさま。と、そんなふうにかげ口をいう者もあり、城下匡真寺(現宗光寺)の長老義達なども、秀秋に拝謁したあと、ひそかに日誌に書いた。〈資性駑鈍、しかも暴慢、お家滅亡のしるしか。悲しむべし悲しむべし〉』(引用)
まだ幼さを残す顔貌を支える体躯が、予想をはるかに越える長身なのを見て「ウドの大木」と早合点したのでしょうか。
話が変わります。かつて近江湖北関係資料の中に「天正十年、本能寺の変に際して総持寺に避難、金吾八歳(総持寺文書)」とあるのを見つけました。そこで総持寺を訪ねて確かめたところ、まったくの事実無根であると判明したことがあります。
話が戻ります。平成二十一年九月、三原市立中央図書館に義達の日誌について問い合わせてみました。唐突の依頼にもかかわらず、調査の上、回答いただいた文面をここに転記します。
「ご質問いただきました『豊臣家の人々』中の匡真寺(現宗光寺)長老義達ですが、宗光寺ご住職に直接このことを尋ねてみましたところ、匡真寺とは新高山城下(現三原市)にあった頃の寺名だが、その頃の文書というのは現存していないし、また、あったとも聞かないとのことでした」
お寺側には、作家側からの質問を受けた記憶も記録もないのに、同時代人の日誌という出典まで作り、秀秋愚鈍!を叫ばねばならない理由は、一体どこにあるのか。
念のために公立図書館の司書さんの協力を得て、仏教関係の辞書、人名簿、古書籍などどれを調べても、いまのところ『義達』の存在を把握することができません】
恐らく「義達」も「義達の日誌」も当該作家さんの創作だろうから『豊臣家の人々』の外の実存世界には存在しないと思う。ところで、小説であるからには虚構が混在するのは当然で、むしろ、問題とすべき点は事実関係の把握が浅薄であることだ。そういう意味では湖北関係資料の捏造性に比べたら段違いに罪は軽い。ただし、問題がないわけではない。小早川秀秋を頭から「資性駑鈍、しかも暴慢」と決めつけてかかるから、そういう小細工を弄せざるを得なくなるのだ。
「義達とか、日誌とか、そういうでっち上げの材料で説明するのは小説作法に反する。秀秋がかくかくしかじかの行動を取ったから愚鈍、こんなことばかりしていたから暴慢と読者にわかるように具体的に原因や理由をきちんと書け。史実をもっと丁寧に研究しろ。これでは『美しい川の流れ』式の表現とまったく同じで、流れる川の何が美しいのか読者にはわからないし、美しいと感じることはできない」
高名でなかったらこんなふうに編集者からペケをつけられ、厳しく注文をつけられるところなのだが、天下のNHKに出ずっぱりで、したがって高名で売れている作家さんには、遠慮が先に立っていえなかったようである。
この作家さんの秀秋像の認識はまったく論ずるに値しない程度の低いものだが、これを読み、高台寺蔵「絹本着色小早川秀秋像」を目にしたら、だれもが高名な作家さんの愚鈍説を肯定して疑わなくなるであろう。
しかし、本物の秀秋の顔が高台寺蔵「絹本着色小早川秀秋像」そのものであったとしても、彼が魯鈍である証拠にはならない。地上から夜空を眺めて太陽や月の位置が変わるのを見ても、動いているのは天体で、地球は動いていないことにはならない。それと同じことである。
バイアス、思い込みの恐ろしさ……。
日本史検察庁はこれまで番たびバイアス摘発に努めてきたが、一向になくなる気配がない。それもそのはずである。この作家さんに石田三成が「官僚臭の強い人物」と指摘されながら、ある女流脚本家が全国紙で堂々と「そういう評価にとらわれないで思い切り正義の人として描きたい」と抱負を述べる記事を読んだことがある。どちらも同じ穴の狢というべきで、バイアスの仕掛けは新たにどんどん生み出されていく。
結局、何がいいたいのかというと、高台寺蔵「絹本着色小早川秀秋像」のイメージが定着してしまうと、秀秋がどんなに教養が深く、俊秀にふさわしい行動を取ったとしても、事実のほうが嘘に思われてしまう、というある種の傾向が厳然として存在する事実であり、そうした傾向をなくすことは不可能だとなると、最初からそういうものと認識して用心するほかない。
プロファイリング的にいうと、トップと本人の中間に位置して権力者の窓口的な役割を務める人間にとっては、「オヤジは何でこんなやつを重用するのだろう。俺はこんな奴絶対に認めない」という思いで、虎視眈々と失脚させる機会をうかがうのが常である。抽象的にはこういうパターンがあり、具体的には秀吉、三成、秀秋のからみが、もろにこのパターンに当て嵌まるという事実を察知することである。
秀吉にしてからが、大政所と秀長の存命中の秀秋の処遇と、没後の処遇とでは天と地ほどの違いがある。大政所と秀長の存命中の秀秋の処遇は見せかけであり、没後の処遇こそ秀吉の本心なのだ》
しかし、捨てる神あれば拾う神あり
秦野裁判長がめずらしく長井検事の論述を途中で遮りました。
「要するにだな。秀次が粛清されたのに、なぜ、黒田官兵衛孝高や小早川隆景が秀秋擁護に動いたか、ということなんだろ。別のいい方をすれば、秀次を見捨てて秀秋をなぜ助けたか、ということだな」
「早い話しがそういうことです」
「すると秀秋をいじめたくなるタイプが秀吉と三成、二人の毒牙から秀秋を守ろうとしたのが黒田官兵衛と小早川隆景という色分けになるわけだ」
「黒田官兵衛は大政所の存命時だからこそ秀吉に天下を取るように勧めましたが、没後は距離を置きにかかっています。父親がだれか判然としない秀頼なんて冗談じゃないというわけです」
「そもそも物事には始まりがあるからには終わりがある。戦国時代を始まりとすると終わりはいつかというと江戸時代だが、そうだとしても終わりを待望する気運というものがその前に生じないとおかしい。黒田官兵衛も小早川隆景も天下を口にするからには終わりを望み始めたと考えるべきだろう。そうした観点からも秀頼は論外なのだ。最後の仕上げのできる器量人でなければならん。大政所と秀長の存命時には秀吉を羽柴氏の代表者として天下取りを進言したのだろうが、没後は別に相手を求めたということではなかったのかな」
「そのように理解していただいて差し支えないと思います。秀頼が淀殿の不義の子であることは現代人でさえわかることですから、当時の大名たちが知らぬはずがないのです。口に出さないだけです。それゆえにこそ、秀頼後継を確固たるものにするために秀次が冤罪を着せられ、切腹に追い込まれました。つまり、諸侯の望みを絶ったのです。そして、継承権でいうと秀次のすぐ後に位置づけられた金吾秀秋が次の番になります。それを未然に阻止すべくまず官兵衛が動いて隆景に『秀俊(秀秋)を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか』と打診したことになっています」
「秀秋が『資性駑鈍、しかも暴慢』だったら、あり得ない官兵衛の行動だな」
「そういうことになります。しかし、隆景は考えました。官兵衛の斡旋を断るのが最も問題のない選択肢なのですが、それでは『断絶した秀長・旭の系統に最も近い北政所の系統』まで途絶えてしまいます。秀長と親交のあった隆景としては座視できません。しかしながら、本家に養子として迎えたら、万一のことがあるときは本家を滅亡させかねません。だから、中を取って、秀秋は小早川家が引き取り、毛利輝元の養子には毛利元就の四男穂井田元清の子・秀元を充てた、すなわち、おのれをば捨てたわけです。秀吉がそれを認めたのは、北政所に頭の上がらないところがあったためもありますが、隆景が捨て身で秀吉に挑んだためでしょう。こうしたシチュエーションを考えただけでも、北政所が秀頼を支持したなどの世迷いごとは論じる値打ちすらないことがはっきりするはずです」
「今の段階ではまだ抽象的だが、秀秋は黒田官兵衛と小早川隆景が擁護に動くだけの値打ちを持っていた、ということがわかったわけだ。どういう値打ちかは次回以降の公判で一つずつ明らかになるだろう。本日は閉廷」
今日もまた秦野裁判長の閉廷宣言で公判廷は幕を下ろしました。
