小早川秀秋は家康が恐れるほどの俊秀だった……。
これを事件に描きなおすと「小早川秀秋殺人事件」というかたちで捉え直すことができます。シャーロック・ホームズによって逆推理の道筋が確立されているので、事件と考えたほうが説明がしやすいのです。
秦野裁判長が開廷を宣しました。
「小早川秀秋は岡山藩宇喜多旧臣の手にかかって毒殺されたとする説がある。しかし、ここでは秀秋を岡山藩に入れたら絶対に無事ではいられない、というシチュエーションを利用した未必の故意による殺人事件という漠然とした事件のとらえ方でよいと思う。どのようなかたちであれ、秀秋は死ぬように仕向けられた。宇喜多旧臣による毒殺説は有力な殺害方法ではあるが。と、なると、関ヶ原合戦の恨みが動機となるのだが、しかし、ここでは直接的な殺意ではなく未必の故意による殺意のほうに注目し、徳川家康を黒幕とみなし、本当の動機を解き明かしたい。まず、岡山の宇喜多家の内情について、長井検察官」
「はい」
長井検事は起立して岡山藩旧宇喜多家の内情について次のように論述しました(第6回日本史エンタメ講座から再録)。
秀吉の宇喜多秀家偏愛が助長した御家分裂
関が原合戦の直前に確認される大谷刑部吉継と本多政重の記録上二度目の接点は宇喜多騒動の調停の場面である。しかし、いきなり宇喜多騒動そのものを語る前に備前気質の発露ともいうべき花房氏の硬骨ぶりを示す小田原合戦の一場面に言及しておこう。
石垣山城が完成して秀吉が早雲寺の本陣を引き払って移ってから大坂から淀殿や松の丸殿が諸将の妻妾を引き連れてきて城で暮らすことになった。茶人や能楽師も大勢同行してきて、それからの日常はとても戦場とは思えないきらびやかな色彩に彩られた。秀吉はもとより大名までもがそのありさまだから、関白道の両側には京・大坂あるいは近在からきた遊女が住みついて将兵を相手に春をひさぐなど、いつの間にか城下町らしき町並みまで整い始めた。
籠城方の北条氏政は持久戦ならこちらが一枚上だとばかり城内で茶会を催し、将兵には囲碁や将棋に打ち興じさせ、領民には祭礼を奨励して対抗した。
ある日、石垣山城の大手門前を一人の武将が乗馬して通りかかった。
「殿下の御前じゃぞ、推参者めが、馬から降りろ」
番卒が叱ると、武将は駒の歩みを止めて挑むように肩をそびやかせた。
腹に一物あってわざと乗馬して大手門前を通り抜けるつもりだったのだ。武将は宇喜多秀家の家来で一徹者で知られる花房助兵衛という猛者であった。いくさの間に最も忌むべきは女子であるとされた時代、何とうつけたるこの体たらく、敵をつけあがらせるばかりではないか、というのが助兵衛がいいたいことなのだが、面詰する機会がない。だからといって諦めるような男ではなさそうだった。わざと物議をかもすつもりで番卒にやり返した。
「どこが戦場じゃ。どこが御本陣か。殿下はどこにおじゃる。さればとて、茶の湯や能楽にうつつをぬかすたわけし大将に下馬する礼儀など、それがし、存ぜぬわ」
主君秀家が秀吉に呼ばれてきているのを知ったうえでの高声である。番卒が取り次ぐまでもなく野点の席に筒抜けだった。
秀吉は烈火のごとく怒って秀家に命じた。
「さても小面憎し助兵衛の致しようじゃ。八郎、ひっ捕らえて縛り首にせよ」
八郎秀家は苦りきった。助兵衛は武勇の誉れ高く、むざと殺すには惜しい人物である。またしても面倒を起こしおって、と秀吉に謝罪させるために立っていって連れ戻った。
「大言壮語を吐くからには汝にはさだめし敵の城を落す妙案があってのことであろう。名案を腹にしまったまま冥土へ送るのは惜しい。聞いてとらせるゆえ存分に申し上げよ」
秀家の気持ちも知らぬげに助兵衛は傲然といい放った。
「目の前に敵あらば果敢に挑むだけ。それ以上の名案はござらぬ」
「悪いことはいわん。助兵衛、理屈をこねず、ひたすら殿下にお詫び申し上げよ」
「理屈が通らなくなったら世は終わりでござる」
秀吉が怒って秀家に声をかけた。
「八郎、もう、よい。即刻、首を刎ねよ」
秀家の額に脂汗が浮いた。助兵衛を何とかして助けたいのである。家来思いで大事にするのが秀家の取柄であったが、そればかりが理由ではなかった。備前岡山四十七万石宇喜多家の家中は国許組法華派と大坂組キリシタン派に割れて反目し合っており、秀家は幼いとき大坂に質子として送られてきてから豊臣家の養子となって北政所に養育され、父直家の死後、家督してからも大坂に留まって茶の湯や能楽に耽溺しつつ育ったため大坂組キリシタン派ばかりを大事にし、接触のない国許組法華派を放り出した恰好になっていた。助兵衛は国許組法華派の領袖の一人なのである。助兵衛を成敗しようものなら大変なことになってしまう。
今回の騒動にしてからが、秀吉にする当てつけというより大坂組キリシタン派べったりの秀家に対するいやがらせであるのは明白であった。ここを助命せず秀吉の命令に従って助兵衛を成敗しようものなら、これから先、国許組がどのような行動に出るかわからなかった。秀家は秀吉にひたすら懸命に助兵衛の助命を請うた。しかし、助兵衛はわが命の瀬戸際だというのに秀吉に向かって懸命に助命嘆願を訴える秀家を冷ややかに眺めるばかりであった。
宇喜多家固有ともいうべき過激なエネルギーを理解しない秀吉ではなかったから、同情とも後悔ともつかない深い溜息をついて、遂には秀家の懇願を容れざるを得なかった。ただし、ここで「後悔」の語を用いたのはそうあるべしの識見尺度から出たことで、結局、秀吉は死ぬまで秀家とお豪を身のまわりから手放さなかったのである。
秀吉が秀家とお豪を国許に帰す努力をしなかったために、歳月を重ねるにつれて主君不在の国許を爆心とする宇喜多騒動の起爆力は大きくなっていった。
以下、時系列で経過を示す。
文禄三年三月七日、秀吉、大坂城を秀頼に与えるため伏見城の築城に着手。
同年三月、秀家、豪姫の付け人中村刑部を普請出役に任命して伏見城大手門復興普請に当たらせる。
同年七月、宇喜多秀家、国許から戸川達安、宇喜多詮家、岡越前、花房志摩を呼び、大坂組の長船紀伊、明石掃部、宇喜多平吉を大坂屋敷に集め重臣会議を開く。長船紀伊が執政に任じられる。
文禄四年中、秀家、中村刑部を総奉行にして岡山城築城に当たらせる。
同年中、長船紀伊守家長、組頭難波助右衛門と地方検地から城下弓ノ町に戻ったところを何者かに襲撃される。長船紀伊は無事、難波助右衛門は軽傷、従者が重傷を負った。刺客は二人、のちに花房職之の嫡男五郎左衛門職則と家僕と判明。
同年中、花房職之、職則父子、岡山城下岡山下町の屋敷で閉門謹慎。
同年中、明石掃部が秀家に花房職之、職則、職直父子の身の処置を石田三成に一任するよう進言。
同年中、石田三成、花房父子を佐竹氏に預け、本国常陸国へ送る。職直は池上本門寺門前で家康が引き取る。
慶長三年秋、宇喜多家の国許組と大坂組の対立激化。戸川達安、伏見に秀家を訪ね、国許へ戻るよう談判。
慶長四年三月十日、徳川家康、伏見出発し大坂中島の藤堂高虎の屋敷へ入る。石田三成、家康暗殺を謀るが未遂。
同年三月十一日、前田利政、家康殺害を企て未遂。徳川家康、加藤清正、細川忠興、浅野幸長らに護衛され前田利家を見舞う。
同年三月、長船紀伊守家長、国許で殺害される。
同年三月、中村刑部、国許から逃れて伏見屋敷に入る。
同年三月、戸川達安、宇喜多詮家、花房志摩、岡越前、楢村監物、中吉与兵衛ら槍、鉄砲で武装し、兵を率いて大坂屋敷に押しかける。
以上が宇喜多騒動勃発に至る経過である。三成を首謀者とする家康暗殺計画は長船紀伊守家長暗殺の時代背景を暗示させるために付け加えた。長船紀伊守暗殺事件は秀家が国許へ行けないため大坂組キリシタン派の長船紀伊と中村刑部を執政として送り込んだのが原因であったが、さらに遠因ともいうべき「虎倉いぶり」と呼ばれる奇怪な事件が小田原合戦の前に起きていた。
宇喜多家に固有の過激な怨念のエネルギー
虎倉いぶりは、天正十六年閏正月、宇喜多家執政長船越中守吉兵衛直祐が弟の源五郎とともに居城の津高郡虎倉城において娘婿新太郎、新介父子に殺害された事件で、目付が子細に調べた結果、次の事実が判明した。
越中守吉兵衛は岡山城に在城していたが、居城の虎倉城を守る娘婿の新太郎に招かれて出かけていった。越中守は嫡男紀伊守帯刀を連れて行くつもりであったが、なぜか急病を申し立てて応じなかったため、次男の源五郎のみ伴うことになったのである。
越中守は祝宴の饗応を深夜まで受けて酩酊し、翌朝、二日酔いのまま自分の末の子と源五郎の子が碁に興じるのを眺めていた。そこへ銃声が轟いて越中守は眉間に弾丸を受けて絶命。続いて十八歳になる新太郎の嫡男新介がその場に現われ、源五郎に斬りつけて即死させた。不可解なことに新太郎の妻までもが薙刀を手にして加わり、すでに亡骸と化した実の父親である越中守の胸を刺し、末子と源五郎の子まで殺害した挙句に城に火をつけ、夫と子と一緒に自害したことであった。
事件の推移は以上のように明らかになったが、結局、死人に口なしで原因がわからぬまま詮議は終結をみた。長船越中守の嫡男紀伊守帯刀が慶長四年三月に暗殺された家長なのだが、虎倉いぶりの下手人の疑いが濃厚であったにもかかわらず、秀家は信用して重く用いた。
ここで注目して欲しいのは秀家がいかに浮世ばなれした感覚で家来を大事にしたかということである。目をかけられるほうは家臣冥利と感じるだろうか、秀家から離れた場所にいる家臣は「俺のほうから縁を切ってやる」という気持ちになってしまう。その原因をつくったのは秀吉なのだが、手当てを怠って傷口を放置した秀家も決して名君ではなかった。すなわち、秀家という人間は世俗の尺度で量ってはいけないのであって、佞臣でもすべて同等に信じて疑わない浮世離れした性格として愛でるようでないと、秀家が本多正信の次男政重を三万石もの高禄で召し抱えた事実に説明がつかなくなってしまう。逆も真なるか式にいうと政重が秀家に対しプラスの思いを抱いていないと、別に思惑があったとしてものちに政重が秀家の為を図って奔走する気持ちに疑問符がついてしまい、到底、理解には至らないだろう。この点もこの考証の最後の段階で明らかになるはずである。
それはさておき、宇喜多騒動は国許の重職が徒党を組み軍仕立てて大坂へ繰り出し主君のいる屋敷を包囲するといった空前絶後の大事件となったわけであるが、なおそれでも氷山の一角にすぎないのであり、地表の幹が宇喜多騒動であるならもっと深く広く地中に張った根の存在があったことを見逃してはならない。
ここで、クロス・モンタージュ法を用いて、関ヶ原合戦の直前に大谷吉継と共同で調停に働いていた榊原康政を家康がわざと口汚く罵って手を引かせた事実を対置させると、あっと驚く意外な事実が浮かび上がってくる。戦後処理の事前措置としては調停が成功して国許組法華派が家中に留まったら対策が立たなくなるということである。説明をわかりやすくするために結果を先に持ち出してしまうと、騒動を起こした国許組法華派の領袖たちを家中から排斥してさえ、戦後、小早川秀秋は不明朗な死に方を強いられたのである。万一、調停がうまくいって彼らが居残っていたとしたら、秀秋を生贄にする程度のガス抜きでは収拾がつかなかったであろう。
吉継が家康の横槍で何か気づいたとしたら……。
ここが関ヶ原合戦がらみでいうところの宇喜多騒動考証の眼目である。
もちろん、判断材料は状況証拠しかない。ここで吉継が何かに気づいたものがあるとしたら、他との整合性の観点からいって家康が目論む戦後処理の事前措置でしかあり得ない。しかし、吉継がそれに気づくことに何の意味があるのか。問題はここなのである。
会津征伐で家康が江戸へ向かえば三成が挙兵するのは把握済みのこと。三成が単独で挙兵することはあり得ないから、そのとき、秀家が加担するのは十中八九の確率で決まったようなものであった。うっかり歩くと地雷を踏む、地面を掘り返せばいたるところ地雷だらけ、宇喜多家の内実をデフォルメしていうとそんな感じだろうか。そこに政重が仕官してきた。
当時の消息通にしてみたら、到底、理解しがたいところである。ちょっと頭のよいという程度の人間なら「ばかじゃなかろか」と軽蔑してしまう動きである。ところが、心眼を持つ吉継は違っていた。
ひょっとして政重の宇喜多家仕官は何かの暗示ではないのか。
「刑部よ、わかってくれ。察してくれよ」
視力を失って逆に感覚が鋭くなった吉継には自分に向かって両手を合わせて拝むしぐさをする家康の姿が見えたのではないか。
小早川秀秋に向けられるであろう過激な怨念のエネルギー
長井検事の論述がすむと、秦野裁判長はいいました。
「家康は備前気質のすさまじさに気づく十分な機会を持っていた。だが、それを秀秋殺害に利用しようという腹はまだ小田原合戦のときにはないわけだ」
「もちろんです。そこが日本史の考証の問題点と申しますか、難しいところです。資料の一点だけを虫の眼で見てしまうと、『小早川秀秋に向けられるであろう過激な怨念のエネルギー』ともいうべきこうした証拠には気づくことができません」
「そうか。『小早川秀秋に向けられるであろう過激な怨念のエネルギー』か。つまり、これが秀秋殺害の凶器に当たると考えてよいわけだな」
「そうです。未必の故意による殺人事件ですから、物質的な凶器は毒薬だとしても、目に見えないシチュエーションが実は本当の凶器と考えないといけないと思います。未必の故意ですから凶器として毒薬が用いられるかどうかは予測できないわけですが、岡山に転封したら必ず殺されずにはおかない、という確信が家康にはあったはずです」
「すると、家康が榊原康政に宇喜多騒動から手を引かせたのは、小早川秀秋殺人事件と同型で、未必の故意による宇喜多秀家殺人事件を期待したと理解できそうだが、そこのところはどうかな」
「気がつきませんでした。家康は小早川秀秋殺人事件の原型ともいうべき宇喜多秀家殺人事件を企図していたという可能性は十分に考えられることだと思われます」
長井検事はしばらく考え込んでから発言しました。
「宇喜多秀家殺人事件が未遂に終わったために本多政重が秀家に仕官する必要性が生じたのではないでしょうか。それとは別に、今、ふと思ったことですが、家康が会津討伐宣言をぶち上げたとき、小早川秀秋は筑前名島にいたため出遅れてしまいました。間に合わないので後方支援にまわり姫路城に入って地歩を固めようとしたのですが、身内のはずの兄に反対されて仕方なく伏見まできました。ひょっとしたら、宇喜多秀家殺人事件の思惑が何か影響しているのかもしれません。が、現在、手許に資料がありませんので、後日、きちんと論述したいと思いますので、ご記憶にとどめていただきたいと思います」
「わかった。ところで、秀家殺害の動機は何だね」
「宇喜多秀家が殺されたら関ヶ原合戦に至る展開は大きく変わったものと思われます。小早川秀秋殺人事件は合戦後のことですから、その動機が関ヶ原合戦にあるのは間違いありません。したがって、殺害の動機解明が関ヶ原合戦の全容解明につながるという意味で、今回の講座のタイトルが『小早川秀秋の目に映った関ヶ原合戦』といういい方になっているわけですが、直接的な動機を裏打ちするためにも、小早川秀秋がどういう人物であったかを明らかにしていかなければなりません。小早川秀秋に対して家康の殺意がいつ芽生えたか、それは時系列上の一点であるのは確かですが、そこに向かって伏線ともいうべき殺意への醸成があったという考え方をとりたいと思います」
「では、そういう方向性で、次回公判から具体的に進めよう。本日は閉廷」
次回から小早川秀秋の出自、人間形成につながりそうな人間関係、出来事などを具体的に挙げ得る範囲で積み上げていくことにします。
