このどうしようもない秀吉と三成にいつまで騙されつづけるのか


 本日は冒頭から秦野裁判長がやる気を見せて長井検事に問いかけました。

「小早川秀秋というから、つい北政所との血縁が記憶に薄れがちになるのだろうが、秀秋の出自を調べると、尾張時代の杉原家に婿に入った定利の娘がお寧で、そのお寧の兄・定利の長男家定のさらに五男が秀秋だから、二人は叔母と甥の関係にある。問題は秀秋の兄の勝俊だ。歌人として高い評価を受けて長嘯子を号し、大儒として高名な藤原惺窩の友人でもあった。長嘯子すなわち勝俊の歌人としての評価は近世初期における歌壇に新風を吹き込んだといわれるほど高かった。その縁からか秀秋は藤原惺窩に師事して薫陶を受けている。まず、師匠の藤原星窩についていうと、弟子に林羅山がおってだな、これが師匠に代わって家康に儒者として迎えられ、江戸時代に日本人のDNAとして定着した『武士道』の土台を構成する朱子学を儒学の正統として確立した。小早川秀秋はそれほどの大儒の薫陶を受けたわけだが、弟子として羅山のような俊秀であったか、それとも名ばかりの弟子だったか、どっちと理解すべきかな

「物事には始まりがあるからには終わりがある。戦国時代を始まりとすると終わりはいつかというと江戸時代だが、そうだとしても終わりを待望する気運というものがその前に生じないとおかしい。確か、裁判長は、そのようにおっしゃいました。そうした観点から動きを追うと、『結果が目的』の法則に照らし、秀秋はすくなくとも一流の家族構成の中に育ち、しかも師匠は超一流、申し分のない教育的環境にめぐまれました」

「藤原惺窩に師事して薫陶を受けたとあるからには、けちのつけようがない」

「現段階では明確には断定できませんが、大局観としては素直にそこから入るのが自然です」

「逆に優秀でないとする根拠はあるのかね」

「ありません。念のため、探しておりますが、まだ見つかっておりません。伝わるのは石田三成の讒言による言葉のみで、いずれも〈美しい川の流れ〉的な表現でしかなく、事実とはいいがたいことばかりです」

「秀秋からみた関ヶ原合戦というからには、秀秋のことを少しは知っておかなければならんだろうちゅうて、いろいろと関連本を読んだがな。著者が警察官だったら、みんなひっぱたいてやるところだよ。もう、頭から秀秋を疫病神扱いして、登場人物に『小早川がつぶれてもいいのですか』などといわせている。結果が目的の法則に照らすと一概に間違いとはいえない気がしてしまいそうだが、つぶすのは秀秋ではない。これだけは断言できる。そして、ここが企業経営でいえば損益分岐点だ。つぶそうとしたのが秀吉と三成で、このときは家康が秀秋を助けた。このときも秀秋はあっさりとはやられないんだな。愚鈍な人間だったら二度も救いの手がのびてくるものだろうか。しかし、問うに落ちず語るに落ちるというのは、まさにこのことだ。奴らのお陰で小早川家をつぶそうとし、三度目ともなって守ろうとする者がなく家康につぶされた、だから、つぶしたのは秀秋ではないという厳然たる事実が浮き彫りになった。この発見は重大で、実に意義深いものがあるぞ」

「鋭い。裁判長は、実に鋭い」

 長井検事が感極まったかのごとくいいました。

「あんまりおだてないでもらいたいが、物事は常に反対を手当てせよという。すると、小早川秀秋殺人事件の背後の黒幕、未必の故意で秀秋を死に至らしめた家康はどうなんだろう。俊秀の秀秋を用いずに死に至らしめるというのは、どう考えても利口な人間のすることとはいえんぞ」

「家康が優秀であることは、いまさら証明するまでもないと思います。時系列でいうと、間にワンクッション入るのです。家康は秀秋を殺そうとする前に自分の懐に取り込もうとしました」

「そこだな。肝腎なのは、そこなんだよ。つまりは秀秋をめぐる家康と三成の三角関係だな」

「三成としては家康も殺したい、秀秋も殺したい、なぜなら、豊臣政権であってこその我だからです。秀吉のためというよりおのれの出世のためです。小姓の忠義で、秀吉以外に尽くす考えがない。自分と秀吉以外はすべてライバルなんです。プロファイリング的にいうと、そういうことになります。それだけに秀吉の心を読むことにかけて三成の右に出る者はおりません」

「すると、秀秋と秀吉と三成との三角関係でもあるわけか」

「そうなんです。まず、こちらから論述させてください」

 長井検事の論述が、こうして始まりました。

          

 悲しむべし悲しむべし、空き巣狙いを働く秀吉三成主従の腹は石炭より黒い

 黒田官兵衛と小早川隆景の配慮で、秀秋は無事を得た。しかし、丹波亀山城十万石の太守として秀吉や三成との物理的距離は変わらない。文禄四(一五九四)年、罪なくして秀次事件に連座させるかたちで、秀吉は秀秋から亀山十万石を没収した。

 この事実に驚いたのが小早川隆景である。

「分別の肝要は仁愛なり。万事を決断するに仁愛を本として可否を断ずれば、万一、その思慮理に当たらずといえども遠からず。仁愛なき分別は才智巧みなりとも、ひがごとなりと知るべし」

 文禄二年七月十六日、朝鮮加徳島で『小早川日記』に隆景本人が書いた言葉である。時系列的にはすでに書かれてある言葉だ。

 最初に断っておくが、武人の説く仁愛だから弱いものに垂れる単なる憐れみの情ではない。多少の優劣はあろうとも武人と認めた相手が対象であり、光秀のように大義なくチャンスに乗じて道を踏み外した武人にかける情ではないはずである。

 それなのにいろいろと書かれている。秀秋という名前だけで小早川家をつぶすだの、〈資性駑鈍、しかも暴慢、お家滅亡のしるしか。悲しむべし悲しむべし〉だの、好き勝手の書きたい放題。著者には日本語がわかって書いているのかと疑いたくなる惨状である。

魯鈍なるがゆえに望ましくない養子であるなら、秀吉と三成に秀秋がいたぶられている今こそ養子縁組を解消するチャンスではないか。それどころか、隆景は小早川家の本貫地安芸三原にみずから進んで隠居して筑前名島三十万七千石を秀秋に継がせている。

以上の事実に素直に語らせれば、秀秋には守ってやろうという気持ちにさせるサムシングがあったと考えなければ隆景が馬鹿になってしまう。それなのにバイアスとの整合性をデッチ上げようなどと道を誤るから、〈資性駑鈍、しかも暴慢、お家滅亡のしるしか。悲しむべし悲しむべし〉などと架空の文書までつくって後世に赤恥を残すことをしてしまう。もっと悪いのはそれに気がつかないで平然と今様イソップを演じてしまうことだ。

さて。

 慶長二(一五九七)年六月に小早川隆景が亡くなると、またぞろ三成が画策を始めたようだ。秀吉から秀秋に第二次渡海の命が下ったのが、同年一月、大坂から名島に帰ったのが五月二十二日、六月二十九日名護屋発、七月十七日釜山上陸。これでは葬儀が片手間にならざるを得ない。養父とはいえ五大老の一人、その人の葬儀など知ったことかというあわただしさではないか。

 もしも秀吉なり三成に人間として評価できる美点のひとかけらでもあるならば、仮にこのような動きが秀秋の意思で起こったのだとしても、敢然と翻意をうながし、喪主として仁君隆景の葬儀にふさわしい営みをきちんと執り行うよう諭すべきであろう。

 それをしないのは、秀吉なり三成の意思でそうなったからだ。

七月十七日に釜山に上陸して、蔚山倭城の普請を担当させられ、早くも十二月四日付命令書が秀秋に帰国するよう伝えてきた。小早川隆景の葬儀のさなかに渡海を強行させておきながら半年も経たないうちに「帰国しろ」といわれたら、秀秋でなくとも「ふざけるな」という思いに駆られるのは当然のなりゆきではないか。

あるいはまた、秀秋が命令におとなしく従って帰国の途についたなら、秀吉と三成は秀秋に対していかなる罪をなすりつけるつもりだったのだろうか。この疑問は極めて重要なのでいつまでも忘れないでおいてほしい。

 秀秋の朝鮮における活動は別のときに述べる。秀秋が帰国の途についたのが慶長三(一五九八)年一月二十九日。待ち受けたかのように秀秋は秀吉の命令で越前北ノ庄十五万石へ転封させられてしまう。空家となった筑前名島三十万七千石は太閤蔵入地となり、石田三成が代官となった。

 ここで思い出していただきたいのが、「秀秋が命令におとなしく従って帰国の途についたなら、秀吉と三成は秀秋に対していかなる罪をなすりつけるつもりだったのだろうか」という疑問点である。

 秀秋が命令におとなしく従ったならと仮定の事実を前提にしているのは、実際はおとなしく従わなかったためである。帰国直前の十二月に始まった蔚山城の戦いで、秀秋は明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に赴き、追い散らして、なおかつ敵を追って馬を疾駆させた。これを「大将にあるまじき軽率な振る舞い」として指弾されたのである。

 殿下が死ぬのを待つしかない。

 こういう諦念に満ち満ちた嘆き声が生じるのは、大名を戦地に駆り立てておいて空き巣をねらうがごときペテンがしばしば行われていたからであろう。大和大納言家断絶、関白秀次家惨殺改易、果たして小早川秀秋も……。

 大名たちは口にこそ出さないが、こころではとっくに秀吉を見限っていたのではなかったか。

          

 長井検事の論述を聞いて、秦野裁判長が大きく溜息をつきました。

「検察官、すまんが今日はこれで閉廷する。胸糞が悪くなった。このどうしようもない秀吉と三成にいつまで騙されつづけるのか」

 長井検事がびっくりして、ほとんど叫ぶようにいいました。

「そりゃないでしょう。お気持ちはわかりますが、秀吉の死後になって家康が秀秋を名島三十万七千石に復帰させる事実にまだ言及しておりません。むしろ、これからなんです」

「家康は、そうするくらい秀秋の人物を買っていた。もちろん、単なる好意でもなければ善意でもない。秀秋の力を自陣営に加えたかったから。それくらい秀秋は俊秀なんだ。それに決まった、決まった……」

「裁判長、一体、どうしたんですか」

「ロッキード事件を思い出したんだよ。あれほどの国辱的な事件は俺の記憶にない。だからといって、角栄のことをいっているんじゃないぞ。正義の側に立った人間は〈権力を叩けば金になる〉ことを知った。芥川龍之介が〈大衆はリンチもする〉といったように、日本をおかしな空気製造株式会社にしてしまった。ロッキード事件でいちばん金を稼いだ立花隆は俺んところへ取材にくると自分で電話してきたくせに現われなかった。じゃあ、何のためのアポイントメントなんだといいたくなるわな。それはそれとして、犯罪成立の基本的な条件、五億円授受の場を再現してみると不可能なんだよ。五億円もの札束をどうやって運んで、どうやって受け取り、二人でも持ち上がるかどうかという札束の山をだな、空気でも手渡したようにしか考えておらんのだよ。すべてにおいて事実に素直に語らせればアメリカがデッチ上げた事件であることは明白なのに、裁判所も、検察も、功名心に奔って、なけなしの政治の天才を犯罪者にしてしまった。選挙のとき目をかけた代議士に配るモチ代は二千万円、それが二十五人で五億円、政治献金としてロッキード社から申し出があったら、田中には自分で使う気はないから『よっしゃ、よっしゃ』で受け取るに決まっている。あとから『ロッキードをよろしく』といわれたとき、まさか証拠がロッキード社のような多国籍企業の犯罪を摘発する議会小委員会に誤配されるシナリオになっていようとは思わんかったろうから、『よっしゃ、よっしゃ』と引き受けた。だから、あれは賄賂ではなく政治献金なんだよ。それなのに検察は秋霜烈日とかなんとか御託を並べて正義感ぶって、司法取引という隠れ蓑を用いてまで日本という国の首相をアメリカに売り渡した。アメリカにとっては中国と国交し、アメリカメジャーを通さないで中東原油の直接買い付けに道をつけた田中は許しがたい男だ。早く退陣してもらいたかった。だが、まさかのまさか、ジャーナリストのみならず検察まで食いついてきた。ちょろい、ちょろい、といったところではなかったかな。これからの日本は正義だの正義漢を売り物にする人間が現われたら、逆に疑って厳しくチェックなにゃならんだろう」

「確かに、今日は閉廷したほうがよさそうですね。考えてみれば関ヶ原合戦は事実を知れば知るほど空しい気持ちになってきます」

「検察官までそんなことになってはしようがないな。気分を一新して、明日、やり直そう。本日は閉廷」

 とんだ幕切れとなりました。事実を踏まえる、事実に語らせると、現代史もかなり見え方が違ってくるのではないでしょうか 
(つづく)




ブログランキングに参加しています。
↓ポチッとお願いします↓
人気ブログランキング