キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その8)


踏まえるべき事実から見えてくる事実群(その1)

 

 幕末史に関して、最も重要な作業は記録にない事実をどうやって掘り起こすかということです。半藤一利氏は著書『幕末史』の冒頭で、幕末史には「官軍の視点から見た幕末史」と「賊軍の視点から見た幕末史」があると喝破しておられますが、本公判ではいずれの立場も取らず、ましてや私的解釈をもって私的解釈と論争するパターンは取らず、あくまでも「踏まえる事実」を視点として「そこから見えてくる事実群」を発見し、私見を交えない客観性、合理性を重視していきます。

 ところで、ただ漫然と、そうしたことを述べても、取っ掛かりがなくては、何も始まりません。本法廷は現実の公判ではあり得ない裁判長の論述書が公判を進行させているわけですが、それらは三十年にわたる証拠調べによって、ジグソーパズルが一つの矛盾もなく完成をみたればこそ、切り口をどこにしようかという発想になるのだということを、最初にご理解いただくことになります。したがいまして、陪審員、傍聴人諸兄姉におかれましては、過去の既成概念を捨てて、本公判で提示される「踏まえるべき事実」を視点として、「見えてくる事実群」が妥当か否かを判断していただくことになります。

 それでは、いつものように秦野裁判長の論述書を長井検事に代読してもらうことにしましょう。

 

天保八年に起きた出来事群から見えてくる事実(その一)

 

 歴史事象は時系列的連続で成り立つものだから天保八(一八三七)年に起きたことが、遠く遡って関係していることがある。例えば天保七(一八三六)年に浜田藩主松平周防守康任が永蟄居、国家老岡田頼母、年寄松井図書は切腹、勘定方橋本三兵衛、会津屋八右衛門は斬罪に処されたのだが、しからば罪は何かと問えば、文政十一(一八二八)年に起きたこと(目下は仮説ながら)が、すなわち天保八年に起きた事実と不可分に関連しているといった具合に……。

 すなわち、天保八年に起きたことは、天保七(一八二四)年と文政十一年に起きた踏まえるべき事実を把握できないと、年表式の平板な事実に終わらせてしまうだろう。なぜなら、天保八年の踏まえるべき事実群のことごとくが、文政七年(一八二四)の藩主仙石政美の死去に端を発するお家騒動「仙石騒動」が絡み、その裁定が天保七年に下された事実、文政十一年に間宮林蔵により探知された可能性が高い浜田藩の密貿易(竹島事件)まで関係してくるからである。幾つもの仮説群を含めた複雑な構造を有機的に解明するには、近代的な犯罪捜査法に理解がないとほとんど困難といってよいくらい難しい。

 しからば、近代的な捜査法はいかなるものかといえば、その目的とする法の精神は「冤罪を出さない」ことにあり、必然的に「判決により有罪とされるまでは何人も無罪とする」という刑事訴訟法の遵守にある。しかし、被疑者、容疑者、被告という過程で、着実に犯罪者を取り込み、絞り込まねばならないから、捜査官は合理的に犯人像を割り出すために、可能なかぎり証拠集めを行い、限られた証拠から考えられるかぎりの仮説を立てては潰していって、最後に残った仮説が証拠に合致し、矛盾なく犯罪事実を明らかにするか、拡散と集約という作業を積み重ねていくわけである。

 木を見て森を見ずといわれるように、一本の木(仮説)にばかり目がいってしまうと、それこそ森(実体的真実)が見えなくなってしまう。仮設検証は危ういとされるのは、そうなることを戒めるものであって、常に森にいることを忘れずにいて、木と木を見分けて、森を再現するつもりで仮説を検証していくやり方を否定するものではない。本法廷はそうしたやり方を採用しており、そのねらいとするところは、一本の木(資料事実)に拘泥したり、私的歴史観をダンビラ代わりに振りまわす従来のやり方に一石を投じるのが目的である。したがって、真実かどうかは一段と考証が進化するであろう未来に委ねるものである。

 さて。

 改革が求められる時代には、やたらと「改革」と銘打ったことが行われるわけであるが、「享保の改革」「田沼意次の改革」、そして、これから解明する「加州侯の改革」の三つ以外は、ろくなものがない。水野忠邦の「天保の改革」に至ってはまったく事実無根であり、こんなのが何で改革として認識されているのかと理解に苦しむほどで、後世の史家によるデッチ上げ以外のなにものでもないと断ぜざるを得ないくらいひどいものである。このことも、「加州侯の改革」がいかなるものかわかるにつれて、自明のこととなるだろう。

 まず仙石騒動から説き起こすと、その発端は文政七年の嗣子なき藩主仙石政美の急死によって、急ぎ先代藩主で父親の久道が跡取りの選出に乗り出し、筆頭家老の仙石左京が子の小太郎を同伴して江戸へ上ると、勝手方頭取家老仙石造酒が小太郎後継を阻止する挙に出たことにある。

 かくして、左京派と造酒派の対立がお家騒動に発展し、結局、久道の十二男で政美の弟道之助を後継に立て、久利とすることで左京も同意、造酒派の勝利で幕を引きかけたのだが、造酒派の内輪揉めに乗じて左京派が主導権を得ようとしたことから、お家騒動が再燃した。

 左京は造酒ほか同派の主だった者を藩政から一掃して、幼君を擁して実権を一手に握り、天保二(一八三一)年になると、浜田藩主で老中の松平周防守康任の姪を小太郎の嫁に迎えて、内外ともに体制固めを図った。しかし、唯一、藩政に関与する地位にとどまった造酒の子の主計が反撃に出て、「左京は小太郎を藩主に据えようと陰謀を図っている」と各方面に訴えるようになった。

 先々代藩主久道も訴えを受けた一人であるが、取り合わず、主計を蟄居させ、首謀者河瀬清兵衛を追放してしまう。しかしながら、久道が天保五年九月四日に亡くなると、河瀬清兵衛は仙石家分家の旗本仙石弥三郎に働きかけ、久道未亡人常真院に上書を呈して御料地生野銀山に潜伏した。常真院は実家の姫路藩酒井忠学に持ち込み、正室で、家斉の娘喜代姫に事情を伝えて、善処しようとした。これに対して左京は御料地生野銀山に潜伏する河瀬清兵衛を勘定奉行の許可なく捕縛、なおかつ、河瀬清兵衛を仙石家分家の旗本仙石弥三郎に仲立ちした分家家来神原転(かみや・うたた)が虚無僧姿で江戸市中に潜伏するところを、左京ら一派は時の老中首座松平周防守に賄賂六千両を贈り、南町御奉行に探索させ、捕縛させた。天領地の生野銀山で、管轄の勘定奉行の許可なく捕縛するのは法令違反であり、虚無僧の神原転を町奉行に捕らえさせたのは、寺社奉行の職権を無視した越権行為であった。

 家斉政権下において内輪もめは、出石藩にかぎらず、いずこの家中もが抱える大問題で、常真院の生家酒井家においても、前橋より姫路に移る際、是とする側、永代この城を守るべしといい、神君家康公の朱印状を楯に取って否とする側、熾烈に相争い、幕府の命により、姫路転封が決まってからも、なお、受け入れぬ者が転封の主導者を討ち、自害して果てた苦い経験がある。姫路にきてからも旱魃の害がつづいて内緒は芳しからず、苦労の連続。そこへ持ってきて家斉の娘を正室に迎えたため、かえって負担は増すばかり。ふつう、将軍の娘を藩主の正室に迎えれば、少なくとも何らかの恩典を伴うものだ。しかし、北海の鱈のごとしと揶揄されるほど産み落とされた子の養子先、輿入れ先に、いちいち恩恵を与える余裕が当時の将軍家にはなかった。訴えたところで、自分たちが甘い汁を吸うことしか関心がない君側の奸中野石翁らに阻まれてしまう。仮に家斉の知るところとなったとしても、将軍本人が美代の方に夢中でそれどころではない。常真院が河野瀬兵衛の上書を証拠に喜代姫を通して訴えたときも、左京派の策謀には、老中首座松平康任がからむだけに、どうすることもできなかった。

 常真院が生前の夫に瀬兵衛の上書を見せて善処を求めたときも、左京らにこちらの動きを察知され、何の役にも立たないうちに他界されてしまった。瀬兵衛は生野銀山に潜伏中に捕縛されてしまうし、左京派のみが大手を振り、事態は悪化の一途をたどるばかり。常真院には無念の思いしかなかった。ただし、この無念の思いが家斉を動かしたといえなくもない。

 天保六(一八三五)年、遂に家斉のお声がかりで老中水野越前守忠邦が生駒騒動の調査を拝命し、寺社奉行脇坂淡路守安董が動き、川路弥吉(聖謨)が捜査して裁定を下した。仙石左京は獄門、左京の側近宇野甚助は斬罪、小太郎は八丈島に流罪、出石藩は五万三千石から三万石に減封、南町奉行筒井政憲と勘定奉行曽我助弼が連座して免職される厳しい沙汰となった。

 しかし、ここでは仙石騒動について語るのが目的ではない。これにからむのが、浜田藩の密貿易事件(竹島事件)と松平康任の収賄であり、その裁定が天保七年に下されることになるわけであるが、そのいずれにも関わった間宮林蔵の働きぶり、さらには浜田藩主で老中首座だった松平康任の失脚した時期が「天保六年九月二十三日とわかるのみで、そうすると加州侯の老中首座就任時期と食い違い、林蔵の行動とも時系列に一致しがたくなってくる。浜田藩の御用商会津屋(今津屋)に得意の変装術で店員となって潜入し、密貿易の事実を掴んだのはいつなのか、その摘発を示唆して江戸へ帰ったのが、文政十一年のことだとすると示唆した相手とされる大坂東町奉行は高井山城守実徳であり、時期的に大塩平八郎の摘発がからみ、様相が一段と複雑になってくる。

 あるいはまた、天保四年のことだとすると、林蔵は浜田藩の密貿易の証拠に加えて出石藩の仙石騒動にからみ康任が賄賂を得た事実をも掴んだことになり、示唆した相手とされる矢部山城守定謙は西町奉行であり、当時、大坂東町奉行は戸塚備前守忠栄であったから、事実と解釈が一致しなくなってしまう。

 すなわち、ここをきちんと整理しないと、天保八年に起きた「踏まえるべき事実群」から「見えてくる事実」を正しく見通すことが不可能になってしまうわけである。

 

竹島事件を摘発したキーマン間宮林蔵に対する誤解を解く

 

 長井検察官が間宮林蔵にからむ問題点まで読み進んだところで、秦野裁判長が中断を指示して付け加えました。

「最後の部分は、犯罪捜査の手法を知らなければ問題にもされんことだろう。疑問すら感じない、問題はそこにあるといってよい。ましてや、間宮林蔵は竹島事件をどの程度察知できたのか、事は浜田藩を挙げての密貿易事件であるだけに、林蔵の関与が文政十一年ならば、まだ密貿易の規模は会津屋の段階にとどまり、長崎からの帰途に大坂に立ち寄り、高井実徳に示唆したという解釈がしっくりくる。しかし、初動捜査の時点でどうして林蔵の示唆が揉み消され、天保七年に至って大坂西町奉行跡部良弼の摘発により、一大疑獄として復活をみたのか、これまた様相が混沌としてしまう。なぜなら、文政十一年の揉み消しには、当時、西の丸老中に就任したばかりの水野越前守忠邦と堺町奉行だった実弟の跡部良弼の汚職も含まれていたからである。良弼の摘発は旧悪をみずから蒸し返す危険を孕むわけだが、その旧悪を知る高井は天保七年に田安家家老の地位で他界し、大塩はすでに民間に下っていたから、摘発に踏み切ったといえなくもない。大塩の反乱にしてからが、高井が死によって水野忠邦兄弟の犯罪事実が埋もれ、自分が摘発の槍玉に挙げた兄弟が、竹島事件の裁決で正義漢面することが許せなかったことが、反乱の動機として浮上する。こういうふうに、説明を進めれば進めるほど取っ掛かりが枝分かれして、収まりがつかなくなってしまう」

 秦野裁判長の口ぶりは、一見、愚痴をこぼしているように見えながら、おもしろくて仕方がないという感じです。

「あるいはまた、松平康任は天保六年九月二十八日に老中を辞職しているのだが、残念なことに老中首座と同時なのか、それとも三戸岡道夫氏が『二宮金次郎の生涯』の年譜で加州侯の老中首座就任を天保五年とするように、康任は老中首座を退いてからも老中に留まったのか、確認が取れないことだ。そうした事実に精通した史家にはわけなくわかるのだろうが、資料に接していない者には手も足も出ない」

「その前に、竹島事件を摘発した間宮林蔵について、解説を加える必要があるのではありませんか」

 長井検事に声をかけられて、秦野裁判長は答えました。

「そうだな。どこから説明したらよいか、迷うくらい複雑にからみ合っていて、そういうふうに誘導してもらわんと、どうしようもない。間宮林蔵は、いわずと知れた『間宮海峡』の発見者だ。その名を世界に知らしめたのが、当時、林蔵と交流を持ったシーボルトで、そのシーボルトをニュースソースにして、イギリスやアメリカで蒸気機関車を用いた鉄道が大量輸送時代を告げつつあるという情報が、オランダ語で会話ができたという島津重豪を介して家慶にまで伝わった可能性があり、そこでも林蔵が関係している」

「それが、加州侯の改革にも関係してくるわけですね」

「これまでに述べたことから随分飛躍して聞こえるかもしれんが、シーボルトと重豪との会談にも関係しているほど、林蔵は政治的に動いた人間だというこっちゃよ。間宮海峡の発見を過大評価するあまりに、著書『間宮林蔵』の著者が《林蔵はシーボルト事件の後は、幕府の隠密として終始した。これはまことに理解に苦しむ転身である》と述べるといった具合で、その人物実像は正しく理解されていない」

「間宮海峡を探査したのは、上司の松前奉行村垣定行の命令でした。村垣家と明楽家はお庭番の宗家でしたから、林蔵はすでにそのときから隠密として蝦夷地探査の任務を帯びていたことになりそうです」

「そういうこっちゃな。村垣と明楽はお庭番宗家で、林蔵を配下にした村垣定行が天保三年三月に病死すると、明楽茂村が後釜に据わった。その上は加州侯と家慶に行き着く。前述の著者もまた《晩年の林蔵は、老中大久保忠真に信任されて、その特命の隠密でもあったらしい》と述べている。その林蔵が藤田彪(東湖)を窓口にして蝦夷地に強い関心を示す水戸斉昭に接近して、将軍家斉の隠居に関係するのだから、林蔵としては間宮海峡の発見者としての名声はありがた迷惑以外のなにものでもなかったわけだ」

「キーマンとしては、『消えた《幕末勃興史》には、まず林蔵ありき』ということですね」

「文政十一年のことにかぎっていえば、林蔵と大坂東町奉行高井山城守実徳、与力大塩平八郎がキーマンになるし、当時、大塩が摘発した武家無尽禁止令の違反者に加州侯の名があったのだから、大塩の摘発が揉み消されたのは加州侯の名誉を守るためだったとすると、『加州侯の大義』への幕臣の期待がどれほど大きかったかが、容易に理解されるだろう。ちなみに高井実徳の死が天保七年で、大塩平八郎の反乱が天保八年であったことも、もう一度、付け加えておこう。いずれにしても、一つの出来事があっちにもからみ、こっちにもからみ、よほどうまくやらないとわけがわからなくなってしまう事案であることは請合いだな」

「総括させていただきますと、間宮海峡の発見は林蔵がやらなくても、いずれ、別のだれかがやったわけですから、個人的なもので、それに対して林蔵が政治的に関与した出来事には、その日そのとき、林蔵がそこにいなければ起きなかったわけですから、間宮海峡の発見などより、問題にならないくらい重大だったということですね」

「間宮林蔵という人間については、間宮海峡の発見だとか、シーボルト事件への関与とか、そうした枝葉のことばかりいわれてきて、肝腎な部分は見落とされてきた。加州侯の改革がらみでいえば、二宮金次郎の本当の姿も理解されてこなかった。ただし、具体的なことはこれからの公判に譲るとして、本日はこれにて閉廷」

 間宮林蔵の知られざる素顔が告げられただけでなく、大塩平八郎の乱にも新しい切り口が提示されそうな気配です。次の公判が楽しみになりました


(つづく)




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