キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その9)


踏まえるべき事実から見えてくる事実群(その2)

 

 

天保八年に起きた出来事群から見えてくる事実(その二)

 

 今回の公判は中見出しが増えてしまいましたが、時系列的連続としても複雑な構成になっているためとご理解いただきたいと思います。前日は「竹島事件」について言及しかけたところで閉廷になってしまいましたので、秦野裁判長はいきなりその説明から始めました。

「いわゆる竹島事件と呼ばれる事象は、会津屋(今津屋)八右衛門が浜田藩の財政逼迫を懸念して竹島(現在の鬱陵島)を舞台にして密貿易を企て、それによって財政を再建してはどうかと提言、国家老岡田頼母、年寄松井図書、勘定方橋本三兵衛らが窓口になり、藩主松平康任が黙認するかたちで始まった。浜田町史は会津屋八右衛門が竹島に渡ったのは天保元年あたりとし、《七年目に露見した》という曖昧な書き方をしているため、天保七年に林蔵が嗅ぎつけたとも受け取れそうに思われがちだが、それが大坂奉行所の密偵による摘発としても、天保七年十二月二十三日が判決日であることに照らすと、あまりにも捜査に時間がなさすぎて現実味が薄い。ここは、浜田町史を拡大解釈して、会津屋(今津屋)の密貿易工作の初動時は文政十一年にまで遡り、浜田藩に提言し、家老岡田頼母が藩主松平康任から黙認を取りつけたのが『浜田町史』のいう《天保元年あたり》ということにする。前日の公判で述べたように、そうした考え方、見方もあったかという程度の受けとめ方で、推理に基づく仮説を多用して当時の事象を再現してみたい。それに対して正誤の判断を下すのは、陪審員ならびに傍聴人諸兄姉氏である

 秦野裁判長の発言につづいて、長井検事による供述書代読が始まりました。

 

文政十一年、間宮林蔵、浜田藩密貿易を探知

 

 加州侯の特命を受けた間宮林蔵が、どのような職制に組み込まれていたかというと、上は将軍家慶(先代家斉も含めて)、老中の加州侯、勘定奉行村垣淡路守定行らが上司で、天保六年に寺社奉行吟味調役川路弥吉(聖謨)が仙石騒動を裁定したとき、林蔵がその配下に組み込まれたとされるのは、弥吉が勘定奉行所に属したためであろう。ちなみに、天保六年当時の勘定奉行は明楽飛騨守茂村であった。村垣家、明楽家はお庭番宗家である。

 さて。

 林蔵が後の海防掛の職務に属する外国船近接情報、外国貿易に関する情報収集に動き始めたのは、文政七(一八二四)年頃とされる。文政五年に松前奉行が廃止され、それに伴って江戸へ戻った林蔵は、元松前奉行だった村垣淡路守定行の配下になり、普請役を拝命、文政七年に至って房総備場掛手附となった。文政八年にかけて奥州へ出張して、接近する外国船情報を集めて帰ると、文政九年にはカペタンに随行してきたシーボルトと島津重豪の会見を取り持った。

 将軍家慶が蒸気機関車の買い付けに強い意欲を持っていたことは、時の老中首座水野越前守忠邦にオランダから買い付けるように命じたこと(運搬手段がなく実現しなかったが)、ペリーが実物の四分の一大(当時の運搬手段としてはこれが大きさ、重量の限界)の蒸気機関車鉄道一式を運んできた事実から明白であるが、そのニュースソースがシーボルトだった可能性が高い。林蔵は文政九年前後にも長崎に数次にわたって情報の収集に出かけており、オランダ商館員フィッセルないしはシーボルトが情報源であったことは間違いないであろう。このことはペリー来航時における幕閣の対応の真相を解明する重要な鍵になるので、記憶にとどめておいてほしい。

 問題は浜田藩御用商の廻船問屋会津屋(今津屋)が竹島を舞台にした密貿易にいつ頃から手を染めたかだが、事案の性質から考えて、思いついてすぐというわけにはいかないであろうし、李氏朝鮮のみならず、摘発時にはスマトラ、ジャワなどにも出かけていたということだから、『浜田町史』のいう「秘密が保たれたこと六年ばかり」から逆算して天保元年とするのは、あまり正確な特定の仕方とはいえそうもない。八右衛門の父親清助は紀州沖で難破、漂流するところをオランダ船に救助されてから三年間、東南アジアの国々を見聞して、密かに長崎から上陸、こっそり浜田に帰った経験の持ち主だというから、その影響を受けてかなり早くから準備していたはずである。林蔵が変装して会津屋に潜入したとされる「文政十一年」あたりにまで範囲を広げたとしても、少しも不自然ではないだろうから、本法廷では文政十一年説を採用する。

 林蔵は文政七年以来、長崎をはじめ鹿児島、鞆などに足を運び、貿易に関する情報を収集していたから、浜田藩の城下に立ち寄ったのは偶然ではなかったはずである。会津屋に潜入捜査したものの八右衛門や幹部の不在期間が長引くなどの心証のみで確証は得られなかった。会津屋への潜入ではなく日本にないはずの銘木を見かけて密貿易を感知したというエピソードもあるが、そうだとしたらなおさら証拠は得られそうにない。かくして確証を得るに至らなかったために、林蔵は長崎を経て大坂天保山湊に立ち寄り、大坂東町奉行高井山城守実徳に面談して、探索の継続を依頼したものと思われる。

 しかし、林蔵の依頼は無視された。

 物事をとことん詰めて必ずやり遂げる林蔵にしてみれば、相手は上位の役職者とはいいながら、密貿易摘発をやらないというようなことは許しがたいはず。ましてや、相手が大塩平八郎の後ろ盾となって大坂、京、堺の町奉行所を巻き込んだ腐敗の摘発に着手し、名奉行の噂の高い男だったから、なおさら理解しがたかったはずである。

 それなのに、大塩のみならず林蔵までもが、なぜ、口をつぐんでしまったのか。

 これから、その答えをここで述べるわけであるが、あくまでも推測による仮説である。

 

大塩平八郎の摘発事案とともに林蔵の依頼も揉み消された

 

 実は、このとき、大塩平八郎が摘発した事案に、西の丸老中となって将軍継嗣家慶の相談役になったばかりの水野越前守忠邦、堺町奉行跡部良弼という実の兄弟二人の汚職と加州侯の武家無尽禁止令違反が含まれていた。

「今、ここで、加州侯に泥をつけることは、賢明ではない。『法は尊きに加えず』というから、取り下げろ」

 高井は武家無尽などどこでもやっていることだし、このような微罪に一罰百戒は向かないといって大塩を説得したが、大塩は儒学者でもあったから「罪は罪」として、あくまでも訴追すると主張した。理屈においては大塩に理があるが、政治的には稚拙というほかなく、とうとう高井は加州侯のみ特別扱いするのを断念して、すべてを握りつぶしにかかった。高井は高井であくまでも、「法は尊きに加えず」を貫いたうえで、依怙贔屓の批判を躱したのだった。

 余談になるが、このあたりはロッキード事件で自国の総理を司法に売り渡した三木武夫総理とは好対照の対応である。政治の天才田中が失脚して日本は多くの国益を失い、それによって利益を得たのはアメリカと三木自身だったから、何をかいわんやである。

 それはさておくとして。

 林蔵は「加州侯特命の隠密」だから、それを不満とするどころか、高井の見識に深く敬服した。大塩も高井のみが頼りだから従うほかなかった。そして、天保元(一八三〇)年、高井が大坂東町奉行から御三卿の一家田安家の家老に転じて去ると、大塩も陽明学者となって奉行所を去ってしまう。これが、天保七年十一月の高井の死去、天保七年十二月二十三日の大坂東町奉行跡部良弼による浜田藩密貿易摘発とつづき、藩主松平康任は永蟄居、国家老岡田頼母、年寄松井図書は切腹、勘定方橋本三兵衛、会津屋八右衛門は斬罪に処されるという一大疑獄となり、翌天保八年二月十九日の「大塩平八郎の乱」、三月十九日の加州侯の死、四月の家斉の将軍辞職、九月二日の家慶の将軍宣下となっていく。

 以上の動きが、いわゆる天保八年に起きた事実群の概観で、

《歴史事象は時系列的連続で成り立つものだから天保八(一八三七)年に起きたことが、遠く遡って関係していることがある。例えば天保七(一八三六)年に浜田藩主松平周防守康任が永蟄居、国家老岡田頼母、年寄松井図書は切腹、勘定方橋本三兵衛、会津屋八右衛門は斬罪に処されたのだが、しからば罪は何かと問えば、文政十一(一八二八)年に起きたことが、すなわち天保八年に起きた事実と不可分に関連しているといった具合に》

 以上、第六十三回公判の冒頭で述べたことに重なるわけだが、もちろん、内容のすべてではない。

 なぜかといえば、それらすべてに関係するのがお庭番を兼ねた隠密間宮林蔵で、生駒騒動に老中首座松平康任が収賄で絡む事実の探知は、いわば浜田藩の密貿易探索の副産物であり、それが加州侯の老中首座就任を早め、家斉政権から家慶政権への移行を後押しした事実に結びついていくからである。

 そのためには、天保三年から四年にかけて、林蔵はもう一度浜田藩に潜入しなければならない。なぜかといえば、天保三年には薩摩藩島津家の大隠居重豪が町奉行の調所広郷を家老格に引き上げて脇差を突きつけ、五百万両にふくらんだ借財の完済を迫ったからであり、天保四年七月八日には矢部定謙が堺町奉行から大坂西町奉行に転任しているからである。

 これに、天保四年一月十五日の島津重豪の死がからむことを考慮し、探索に要する期間を最低でも二年間とみると、ピンポイントに時期が特定される。

          

 長井検事がそこまで読み進むと、秦野裁判長が口頭で説明を加えました。

「このへんで、加州侯の大義と呼ばれた改革の輪郭をはっきりさせておこう。加州侯の大義の実行役は、ずばり二宮金次郎である。しかし、金次郎がやったことの半分も知られていない。それを知ることが『加州侯の大義』の中身を解き明かすことになるから、いずれはもう少し先へいってから詳細に考証するわけであるが、その前段として家斉政権から家慶政権への移行という政局がらみの動きが先行しなくてはならない。この政局がらみの動きの中心が林蔵なのである。なぜ、家慶政権かといえば、家斉政権下で改革しても、君側の奸水野忠成、中野石翁らに甘い汁として吸われつくしてしまうからだ」

「すると、当然、家慶政権は改革政権ということになってきますね」

 長井検事が注釈を加えると、秦野裁判長は一段と声を張り上げました。

「もちろんだとも。加州侯の改革イコール二宮金次郎の改革であり、金次郎の改革が本番を迎えるのは、実は加州侯が亡くなってからなんだ。当然、家慶が金次郎の後ろ盾になっていく」

「そこが、従来の認識と異なる点ですね」

「そのことは、金次郎の改革について触れるときがきたら、取り上げることにして、次回は林蔵の天保三年から四年にかけての行動を明らかにしたうえで、もう一つの政局がらみの探索、薩摩藩潜入、密貿易摘発について論述しよう。本日はこれにて閉廷」

 間宮林蔵がこうまで日本史の表舞台で活躍したとは驚きです。次回の公判が待ち遠しい気持ちになってきました


(つづく)




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