ペリー来航後の日米外交モラトリアム(その7)
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いくださいますようお願い申し上げます。
さて。
昨年末は、消滅させられた「勃興」の部分を「消滅」させた犯人・井伊直弼が事実に反して消滅させられたかのように誤伝されていることを指摘して、公判を締めくくりました。
これまでは、「勃興消滅」の原因が、ペリー来航時のシチュエーション理解の仕方と井伊直弼の人物認識に問題があるという観点から審理を進めて参りました。松平春嶽を政事総裁に推した薩摩藩主島津斉彬の処分も取り沙汰されたわけですが、本人が直前に病死したため処分を免れました。このことは、「勃興」の部分の輪郭を明確に浮き彫りにするうえで簡単に素通りできる筋合いのものではありませんので、井伊直弼によって消滅させられなかった部分という含みで年初冒頭公判のテーマにしていきたいと思います。
島津斉彬がジョン万次郎の帰国に密接な関係を持った理由はすでに解き明かしました。将軍家慶と老中首座の双方から琉球を一手に支配し、フランスを相手に細々と貿易してよろしいという許しを得た事実も明らかにしました。これまでは触れませんでしたが、外様大名の斉彬の養女篤姫が将軍家定の正室に迎えられたのは、祖父重豪の娘寔子(さだこ)につづいてのことですから、異例中の異例の出来事というべきでしょう。
将軍家慶と阿部伊勢守正弘が、どうして斉彬に限ってかくも優遇し蜜月ぶりを演出したのでしょうか。
斉彬に対する家慶と正弘の蜜月ぶりを思うとき、井伊直弼が斉彬の処分を取りざたしたという事実が際立ちます。島津斉彬といえば、堀田正睦、松平春嶽とともに開明派大名の筆頭でしたから、もし、直弼がいわれるように開明的であったとしたら、「松平春嶽を大老(政事総裁)に担ごうとした」というだけの理由で処分することはあり得ないわけです。
しかし、本年幕開けとなる公判ですから、もう少し前向きに構えて、消滅させられた「勃興」の部分に切り込みたいと思います。
では、今年も秦野裁判長の論述書代読を長井検察官にお願いすることにします。
見えてくる事実「徳川と島津の蜜月」も「勃興」の一因だった
時は天保三(一八三二)年、家斉の将軍在位四十五年目、大半を酒色に溺れ、御政道を顧みず、君側の奸老中首座水野出羽守忠成が家斉を傀儡にして甘い汁を吸い、家斉を色香で籠絡した愛妾美代の方の養父中野石翁は、「この人に頼みさえすれば叶わぬことはなく、この人の気に障ったならば即座に身の大事に至る」といわれるほどの権勢を誇った。そうした中で、幕臣の間でささやかれ始めたのが、「加州侯の大義」である。加州侯すなわち小田原藩主で老中の大久保加賀守忠真は自分が士分に取り立てた二宮金次郎の報徳仕法で世直しを進めているのだが、家斉政権のままでは改革しても結局喰いものにされてしまう。
一方、親の罪は子の罪と考える家慶は、将軍家の恥すなわち「治世に関与できない将軍」が親子三代にまたがることだけは避けたい。そのためにも、家斉を早く隠居させて、自分の力で名誉を挽回したい。ここに将軍継嗣家慶と加州侯の共闘関係が成立し、橋渡し役にお庭番間宮林蔵が起用された。
しかし、西の丸継嗣でいるかぎり、家慶は目的を遂げられない。そこで、娘を家斉の正室に嫁がせた島津重豪が調所広郷を用いて派手に行い始めた密貿易や贋金づくりを間宮林蔵に摘発させ、御台所寔子ともども家斉に隠居を勧めさせたことは先述した通りである。
ただし、天保三年と時期までは特定してこなかった。
では、なぜ天保三年かというと、薩摩藩で大御所政治を敷く大隠居重豪が調所広郷を家老格に引き上げて改革を請け負わせたのが天保三年だからであり、重豪が死ぬのが天保四年一月十五日だからである。ところが、これだけでは実効性が薄い。なぜなら、御台所寔子は家斉が隠居する天保八年まで足掛け五年も隠居を説きつづけたからである。
その説くところは、
「およそ物事には終わりがあります。わが世の春が無限につづいた例はありません。島津の大隠居に倣い、隠居して西の丸様に将軍職を譲り、大御所政治を行うことで、実権を握り続けるのが賢明です」
こんなところであっただろうか。
もちろん、御台所寔子がそこまでして、家に隠居を説きつづける理由が存在しなければならない。ここで、「結果が目的の法則」から導かれてくる「踏まえるべき事実」を二つ挙げよう。
一つは薩摩藩の密貿易に密かに公許を与えることである。そして、この密約は弘化三(一八四六)年六月一日に将軍家慶が島津斉興と斉彬に接見し、「琉球はその方の一手に委任のこと」と告げて実現を見ている。さらに、六月八日には老中首座阿部伊勢守正弘が調所広郷を江戸城に呼びつけて、「琉球支配は薩摩藩に一任、やむを得ない場合は交易を許す。ただし、相手はフランスに限り手細く行え。そうする分には交易を結んでも幕府に異存はない」と告げる念の入れようであった。
もう一つは、斉彬(藩主斉興ではなく)の養女篤姫を家祥(のちの家定)の正室に迎えるという密約である。外様大名から将軍の正室を迎えた前例はなく、御台所寔子が嚆矢である。御台所寔子は大奥で絶対的な権力を持ち、重豪も将軍の舅として栄耀栄華を経験した。夢よ、もう一度。持ちかけたのが家慶側だろうから、島津家にとっては飛びつきたい話だ。
すなわち、堀田正睦と双璧とされる蘭癖の島津重豪は中屋敷とされる高輪の屋敷にいるのだが、かつてそこは上屋敷だったから、本来、重豪が隠居したとき、継嗣斉宣に明け渡すべきだったのだが、蘭癖趣味で庭に植えた洋蘭などは移すと枯れてしまうので、これまでの虎ノ門外の中屋敷を上屋敷に変更して居座った。加えて、斉宣が重豪の蘭癖趣味を批判して、緊縮財政に転じたため、重豪は斉宣を隠居させ、孫の斉興に跡を継がせた。その斉興もまた緊縮財政を継承したため、重豪は藩政の実権を掌握し、曾孫の斉彬を世子に据えて、折あらば当主に据えようとしているところだ。しかし、借金に借金を重ねて、大砲や鉄砲などの火器、洋風家具や什器類、地球儀や蘭書など、次から次へと買い漁ってきて、とうとう藩の財政は挽回不能なほど傾いた。調所広所に脇差を突きつけて改革を押しつけた張本人にとってみれば、家慶の提案はすぐにでも飛びつきたい話である。
ここで注目すべきは、世子斉彬の養女を家祥(家定)の正室に迎えるとしたことである。天保三年の時点ではまだ家慶は将軍継嗣であり、家祥(家定)もまだ将軍継嗣ではない。ましてや、男子のいない斉彬から家定に正室を迎える理由がない。
それでも、この密約が成り立つのは、もう一つ、双方に付帯的な密約を伴うからであった。まず、家慶の側から付帯的な条件をつけた。幕府隠密間宮林蔵の調査を受け入れろということである。
「表向きは間宮林蔵を立てて、琉球測量の名目でお国許に入りますゆえ、帳簿の閲覧などに便宜を図っていただけないでしょうか」
間宮林蔵が薩摩藩に入って密貿易と贋金づくりの事実を突き止めて帰ったのは歴史的事実である。しかし、これまで、どうして実現できたか、やり方がわからなかった。考えに考え抜いてたどりついたのが天保三年の家慶と重豪との密約である。家慶の言葉を聴いて、重豪の顔に苦笑が浮かび出た。
「これは、これは、ふところに、飛び込まれましたな」
家慶は重豪の顔色を読み、ほとんど成功を確信して条件を付け加えた。
「もう一つ、おまけをつけましょう。調所が改革をやり遂げたら、必ず処罰します。そのうえで、世子斉彬に家督させます。これなら、文句はありますまい」
重豪が、いきなり声を立てて笑い出した。そして、鄭重にいった
「おまけつきとは、実に桁外れな思いつきにて、まことに恐れ入りました。特におまけが気に入りました。確とお約束いただけるなら、いかようにも、ご便宜を計らいましょう。西の丸様にお目にかかれて、棺桶に片足を突っ込んで途方に暮れる栄翁には、よき冥土へのみやげになりました。善哉、善哉」
書き方は小説のようだが、これで密約は成立し、後に阿部正弘が調所広郷の死に大きく関与することで、約束は果たされた。約束が果たされたからには、密約は存在したとするのが、「結果が目的の法則」である。
つまり、天保三年にこれだけのことが行われていないと、歴史の歯車がかみ合わず、謎が謎を呼び、肝腎なことほどうやむやになってしまう。そして、それが既存の幕末史のウィークポイントであった。
長井検事が論述書の代読を終えると、秦野裁判長がいいました。
「ペリー来航後の日米外交モラトリアムという観点からすると、来航前の話に遡りすぎたが、まあ、正月サービスと受けとめていただこう。井伊直弼にばかり目が行過ぎると、こうした『勃興』に区分すべき歴史的事実がいつまでも埋もれたままになってしまうというこっちゃよ。本日はこれにて閉廷」
かくして、平成二十八年の公判が開始されました。
井伊直弼によって喪失させられたものに、これで薩摩(島津斉彬)と徳川家の蜜月が加わりました。こうした喪失が西郷隆盛の幕府から長州への乗り換えに結びついている可能性は大なのですから、幕府と薩摩の蜜月関係の消滅という面で、島津斉彬の死も「消滅」の原因になりました。
ただし、消失は勃興があってこそ成り立つことですから、次回は勃興に類する部分を掘り起こすことにします。
