音吉がモリソン号に乗り込むまでの驚くべきいきさつ(その2)
ハドソンベイ社フォート・バンクーバー支店の支店長ジョン・マクラフリン博士は、音吉たち三人をネイティブ・アメリカンから引き取って、フォート・バンクーバーに連れ戻り、自宅に住まわせた。
「いずれは日本に送り返すが、当座は学校で学ぶように。そのときがくるまで家族になったつもりでいなさい」
音吉たちは言葉が通じず、何をいわれたのかわからなかったのだが、マクラフリン家に暮らすうちに博士の人となりとともに、いわれた意味が自然とわかってきて、信じられぬ思いで感謝の念を深めた。
北米の僻地アストリア地方には神父がいなかったため、マクラフリン博士が人類愛の伝道者としての活動を併せて行っていた。後になってわかることだが、ハドソンベイ社の幹部が軒並み大金持ちになり、退社後、事業家として次々と成功を収めていく中で、マクラフリン博士のみ私の金は一ドルも残さなかったといわれる。他の幹部諸氏が資産形成にまわした所得は、すべて隣人たちへの奉仕に投じられたためであった。
音吉たちが入れられた学校は、ハドソンベイが社員の子弟のために設立した施設で、マクラフリン博士に運営が一手に委ねられていた。音吉たちが入学することになったとき、ハドソンベイ社フォート・バンクーバー毛皮交易所の交易主任としてアーチボルト・マクドナルドが赴任してきて、長男のラナルドが同級生となって、音吉たちと席を並べた。十六歳になった音吉に対してラナルドはまだ九歳であった。
音吉はラナルドの容貌を見て思わず日本語で口走った。
「あんれ、おまえ、日本人?」
「え?」
マクドナルドは問うように音吉を見つめた。マクドナルドは日本語がどこの国の言葉かわからないようすであったし、音吉の容貌を見ただけで白人でないと理解したようだ。音吉は自分がマクドナルドを日本人と勘違いしたことに気づいて詫びた。
「すまねえ。日本人と勘違いしちまった。見分けがつかなかったもんだから」
ラナルドは音吉を見つめて小首を傾げた。
「それ、どこの言葉?」
ラナルドが話すのは英語であって、お互いに言葉はまったく通じないのだが、音吉は英語を覚えるにつれてラナルドに日本語の読み書きを教え、ラナルドは音吉に覚えたばかりの日本語で英語を教えるようになっていった。学校での成績は日本人三人の中で音吉が突出していた。
ラナルド・マクドナルドの生母は彼を産むと間もなく亡くなった。祖父に当たるチヌーク族の族長コム・コムリにラナルドが引き取られてのち、間もなく二歳になろうかというとき、父親のアーチボルトはスイス人マイケル・クラインの娘ジェーンと再婚した。アーチボルトは再婚と同時にラナルドをコム・コムリから返してもらい、ジェーンの子として育てた。そうした生い立ちのいきさつはラナルドの記憶に残らず、両親も事実を告げなかったため、彼がその事実を知るのはアーチボルトとコム・コムリの死後まで待たねばならない。したがって、音吉が知るマクドナルドは、あくまでもジェーンの実子であり、混血児という認識はまったくなかった。
そのようなわけで、遅れて生まれたラナルドの弟はアングロサクソン系の顔かたちをしていて、ラナルドとまったく異なる容貌だったのだが、彼はまったく気にしないでいた。ただし、学校の教室で音吉たちをはじめて見たとき肉親に抱く感情を覚えたのは、アングロサクソン系の風貌の弟と皮膚の色と顔のかたちが違うことが、潜在的に働いたためかもしれない。異邦で出会った同胞という感じで、音吉とラナルドはお互いに魅かれるものを感じ取り、年齢の垣根を超え、親密に学校生活を送った。
ラナルドと母国語を教え合うとき、漂流一年二ヵ月をかけて船頭から読み書きを学んだ音吉の努力が生きてきた。二年間の交換授業は「教えていただく、教えさせていただく」という感じであった。気心の知れ合ったお互いの母国語をレクチャーし合ううちに、音吉とレナルドは兄弟のように親しくなった。しかし、船頭の重右衛門から読み書きを学ばなかった久吉と岩吉は、音吉がマクドナルドと交換授業をしている間は蚊帳の外であった。
やがて、マクドナルドが音吉に『新約聖書』を解説するようになった。母親から教わった通りにしゃべっているのだろうが、本人もよく理解しているようであった。その説くところはマクラフリン博士の行いそのものであった。しかし、マクラフリン博士はハドソンベイ社の交易所長であり、なおかつイギリス国王から特許状と認可状を受けた会社の付託により当地の行政長官も兼ねている。犠牲的行為を繰り返しても平気でいられる資力があるからよいが、貧しい者が博士の行いを真似たらどうなってしまうか、理屈は理解できても納得がいかなかった。
「ちょっと待ってくれよ、マック」
音吉は疑問を感じてマクドナルドを制止した。
「利他、愛他の生き方がすばらしいには違いない。けれど、貧しい者、めぐまれない者が、わが身を犠牲にしたら、幸せになれないじゃないか。そんなのおかしいよ」
「『新約聖書』はイエスの教えを伝えるもので、最初から現世利益を否定してかかっているんだって。報われても、報われなくても、やるべき意義を見出したらやりなさい。与えられるより与えることにしあわせがある。与えるものは物やお金だけではない。人間にはあふれる愛がある。愛は与えれば与えるほど深くなる。物にせよ、お金にせよ、愛にせよ、現世で報われようとして結果を欲しがってしまうと、人間が卑しくなって、結局、何をやってもうまくいかない」
ラナルド・マクドナルドの背後にスイス人の母親ジェーンを見る思いで、音吉は彼の言葉に耳を傾けた。ジェーンはドイツ系スイス人の父親マイケル・クラインから聖書に忠実な娘になるよう立派な教育を受けていた。音吉はマクドナルド家を訪問するたびに、ジェーンを自分の母親のように感じていたから、その人がマクドナルドの口を通していっているのだと思うと、疎かには聞けなかった。かくしてマクラフリン博士を偉大なる父、ジェーンを慈悲深い母、ラナルドを忠実な僕(しもべ)とみなして、音吉が新約聖書に理解を深めたのは紛れもない事実であった。
西暦一八三五(天保六)年、ラナルド・マクドナルドは学校を卒業してレッドリバーのアカデミーで上級教育を受けるためフォート・バンクーバーを去ることになった。音吉も日本をめざすためにマクラフリン博士が手配した船でアメリカからイギリスへ渡ることになった。
音吉は別れ際になってマクドナルドに呼びかけた。
「マック、日本へ来いよ」
「うん」
ラナルドは強くうなずいてから反問した。
「でも、どうやって?」
「レッドリバー・アカデミーで学ぶのに四年、卒業してすぐというわけにはいかないだろうから、時間はたっぷりある。マックがやって来る頃には外国人が自由に出入りできるように、俺が日本を変えておくよ」
音吉はすでに十八歳、十一歳のラナルドに対して、彼の情熱と理想へのひたむきな思いが夢を語らせたのだろう。
「できるの?」
「願え。されば、与えられん」
音吉は胸を張った。
「できるか、できないかではない。やるべきことをやるべきときにやれといったのはだれだっけ」
「確かに。でも、もし、万一、そのとき、日本が鎖国したままだったら、どうしよう」
十一歳のラナルドのほうが現実的に考えていた。
「そのときは漂流民を装ってくればいい。来るときは間違っても日本語をしゃべってはだめだぞ。スパイとみなされて殺されてしまうぞ」
「わかった。うまくやれると思う。だけど、連絡はどうしよう」
「マックの新しい住所を教えてくれれば、日本へ向かうとき、俺のほうから手紙で知らせる」
「じゃあ、待ってる」
このときの約束がどのような結果をもたらすか、神の身ならぬ二人にわかるはずもなく、どちらからともなく手を握ってお互いを見つめ合った。
ここまで、代読してきて、長井検事は驚いて秦野裁判長を見つめました。驚きの目を瞠る長井検事を得意げに見つめ返して、秦野裁判長は得意そうに鼻をうごめかせました。
「音吉は、のちにモリソン号に乗せられて漂流民として、浦賀に現れる若者で、ラナルド・マクドナルドはのちに利尻島に偽装漂着、長崎に移送されて、通詞森山栄之助らと日本語と英語の交換授業を行うことになる。その際、ラナルドは日本語をまたく理解しないものとして振る舞い、森山から日本語を教わるふりをしている。そのラナルドが、とっくの昔に音吉と二年間も学校で机を並べていたわけだ」
「ラナルドの利尻漂着が、偽装といわれる所以ですね」
「ラナルドを乗船させてきた船長がだな、ラナルドには船長用のボートを金で売っているんだな。遠洋航海では、ボートは金には代えられない貴重なものだ。その証拠に、ジョン万次郎は上陸用のボートを売ってもらえないばかりに、西海岸の金鉱でアルバイトしてボートを購入しなければならなかったんだ。この違いが意味するのは何かな」
「ラナルド場合は、アメリカ政府がバックアップした、ということでしょうかね」
「ジョン万もアメリカ政府がバックアップしたと推量しないとわけがわからなくなってしまう面があるが、最後の航海は、政府がバックアップしなかったということも考えられる。いずれにしても、今後の事態の推移を見つめないことには論じようがない。本日は、これにて閉廷」
次回は、「音吉がモリソン号に乗り込むまでの驚くべきいきさつ(その3)」ということで、いよいよ音吉がマカオに姿を現すことになります。
