今日もまた、秦野裁判長が厳かに開廷を宣しました。その顔には、歴史の真実の姿を明かす喜びで輝くようです。
「アメリカが真っ先に望むのが、太平洋航路を開くための石炭補給地であり、開国とか、通商は差し迫ったテーマではなかった。このことは昨日の論述でわかってもらえたと思う。ペリーの浦賀来航の目的は、正確にはアメリカ大統領の書簡を外交儀礼に則って幕府の高官に手渡すのが目的で、開国云々は日本人史家の勝手な解釈でしかない。問題は、なぜ、ペリーの来航が第一次と第二次に分かれたのかということだが、アメリカ側は必然的な理由から、幕府側は将軍家慶の死という必然の理由から、すなわち、双方の必然の理由が偶然に重なるという「偶然」が起きたため、日本の史家は今日まで「アメリカ側の必然」に気がつかないできてしまった、ということなんだな」
「歴史には、偶然がからむことがある、ということですね」
「百万分の一といってもよいような偶然が、歴史的真実を闇に葬ってしまったのだよ」
「偶然の実態が白日の下にさらされたら、従来の定説など跡形もなく吹っ飛ぶでしょうね」
「そこへたどり着く前の段階で、あっと驚くような事実が記録されている。てんでにばらばらに記録されているから、つながりに気がつかなかった」
「それが、これから、裁判長の犯罪捜査のノウハウで、一つひとつ、そして、また一つと、証拠として挙げられていくわけですね」
「そういうこっちゃ。今日の論述は、音吉がモリソン号に乗り込むまでのいきさつなんだが、長井検事に代読を頼みたい」
「もとより、そのつもりでおりました」
かくして、長井検事の代読が始まりました。
日米の有志による足掛け二十三年におよぶ太平洋にかかる虹の架け橋
一八三八(天保九)年に起きたモリソン号事件、一八四一(天保十二)年に始まるジョン万次郎の鳥島漂着ならびにホイットフィールド船長による救助と養子縁組、一八四五(弘化二)年にあった記念すべきマンハッタン号の来日、一八四八(嘉永元)年に起きたラナルド・マクドナルドの偽装漂着、一八四六(弘化三)年から一八五一(嘉永四)年にかけてのジョン万次郎帰国への航海、一八五三(嘉永六)年のペリー浦賀来航、一八五四(嘉永七)年の日米和親条約締結、一八六〇(万延元)年の遣米使節新見豊前守のアメリカ大統領謁見に至るまで連続して起きた事件や出来事を柱とする歴史ストーリーが、日本国内で起きた歴史的事件の本筋であるが、それだけではなんのことかわけがわからない。しかし、そこに日本への帰国を断念してマカオに定住して、オットソンと改名し、貿易事業に携わりながら、日本と外国の情報の媒介と人的交流の仲介役を果たした人物をキーマンとして付け加えると、一八三八(天保九)年に起きたモリソン号事件から一八六〇(万延元)年の遣米使節新見豊前守のアメリカ大統領謁見に至るまで、足掛け二十三年におよぶ日米交渉史は、太平洋にかかる虹のように両国を橋渡しして、鎖国日本に夜明けをもたらした事実が浮き彫りになってくる。それらを時空の帳の陰にいつまでも眠らせておくのはいかにも惜しい気がするので、時系列的に連続すると思われる事実を踏まえつつ推理洞察を加えて感銘深いエピソードの再現に努めた。すなわち、これからの幕末開国史は、聞いたこともないような音吉の漂流記から始めるのが、正式になっていくことと思われる。
音吉がモリソン号に乗り込むまでの驚くべきいきさつ(その1)
音吉がオトソンになるためには難破漂流を体験しなければならなかった
樋口重右衛門が船頭を務める宝順丸が鳥羽を出港して遠州沖にさしかかったとき時化に見舞われたのは、一八三二(天保三)年十月のことであった。千五百石積みの宝順丸は「大船に乗った気でいろ」といわれるように沈む心配のない見上げるほど大きな船だったが、船尾を叩いて激しく襲いかかる大波に呆気なく舵を奪われて、操船不能に陥った。こうなってしまうと転覆を免れるため斧で帆柱を切り倒すしかない。樋口重右衛門は宝順丸の帆柱を斧で切り倒した。これでもう宝順丸はみずからの意志では港へ向かえなくなって、嵐が収まったとしても波間に漂うほかなくなったのである。だれもが漫然と漂流を覚悟したとき、こうした和船の構造に疑問を持った一人の若者がいた。それが炊ぎと呼ばれる水主見習の音吉であった。
「舵がもっとしっかり固定されていれば、時化に見舞われてもあんなに呆気なく失うことはなかったはずです。親方、どう思いますか」
重右衛門は驚いてじっと音吉を見つめ返した。
千五百積みの船ともなるとどんな嵐でも沈まない大きさを持つが、舵が固定されていないために外洋航海はできないというのが船頭仲間の暗黙の了解であって、そういうものと漫然と認識して疑問に思うことはなかった。
「だから、何だというのだ。いまさら、そんなことを考えてどうなる」
重右衛門は不機嫌に音吉に質問を突き返した。
「おっしゃるように、どうもなりません」
音吉は素直に引き下がった。だが、納得したわけではなかった。それでも俺は思わずにはいられない。できる、できないは二の次だ。考える時間はもう結構だといいたくなるくらい無限に果てしなくある。音吉は考えること自体を生きる証しとするつもりで考えつづけた。
海を渡って外国へ行くことまかりならぬと法で禁じられているだけでなく船の構造そのものからして外洋航海ができない仕組みになっている。だから、舵を失えば帆柱を切り倒すほかなくなってしまい、幸運にめぐまれて他の船に救われないかぎり漂流がつづく。漂流が長引けば間違いなく死に直結するのだから、漂流するということは生きながらすでに死罪を執行されたのも同然ではないか。鎖国を守るために権力者はそこまでするのか。
音吉はからりと晴れ渡って陽光燦々と降り注ぐ空を見上げながら、まだ姿さえ見たことのない権力者の智恵に反発を覚えた。しかし、反発して、どうなることでもない。ここには天皇も将軍もお殿様も船主もいないのだ。音吉は一つ年上の兄久吉と炊ぎの役目を黙々とこなし、積荷の米を食料にして、蘭引(らんびき)といわれる方法で海水を蒸留して真水をつくることに精を出した。釜で海水を煮て水蒸気を海水で冷やし水滴を集める作業はそれこそ半日がかりの根気の要る作業であったが、時間はあり余るほどあったから、逆にそれが救いになった。雨が降れば蘭引の仕事から解放される。水なくしては生きられないというのに、生きるのに必要なものはすべて音吉の手を経て乗組員に分配されるのだから、恩吉が乗組員の生殺与奪の権を握ったようなものであった。水の調達に道がつくと野菜の欠乏が深刻になった。刻むときにかけらを口に入れるだけでも毎日のこととなると違いが出る。果たして乗組員は野菜と運動の不足から壊血病で一人倒れ、二人死にして、櫛の歯が欠けるように人数が少なくなっていく。
対策がないのに時間は気が狂いそうになるくらい限りなくある。何もしないでいたら本当に気が狂いそうであった。炊ぎの役目が退屈からくる精神の萎えから自分を救ったと気づくと、音吉は持て余すほどある時間を少しは生かして使おうと考えて重右衛門に願い出た。
「親方、俺に読み書きを教えてください」
重右衛門はめずらしいものを見るように音吉の顔をしげしげと眺めた。
「こんなときに読み書きなんか覚えてどうするつもりだ。地獄の閻魔様に嘆願書を書くつもりではあるめえが」
「死後のことなど考えてはおりません。こんなときだからこそ何か希望をもちたいんです。生きている間は人間らしく暮らしたいのです」
「ほお。見所があると思いながら見ていたが、なるほど、変わったやつだ」
重右衛門は半ば呆れ、半ば感心していった。
「まあ、いいだろう。どうせ、ほかにすることはないんだ。読み書きなどは単調すぎて陸ではなかなかつづくものではないが、こんなときにはかえって気がまぎれていいかもしれん」
重右衛門から同意を取りつけてから、音吉は兄の久吉にいった。
「兄さんも教わったら?」
「そんなの、俺はいいよ」
「どうしてよ。ほかにやることなんか、ないじゃないか」
「やったからって、どうもなりゃしない」
音吉は岩吉を見た。
「俺も遠慮しとく」
「無理に勧めることはない」
重右衛門にいわれて音吉は引き下がった。
音吉が重右衛門から読み書きを教わる期間は実に一年以上にもおよんだ。
生死の境がはっきりしない毎日に身を置くうちに、いろんな自然現象を経験した。天を覆う雲が昼を夜に変え、風がうなり、怒涛と化したうねりが天と地ほどの隔たりを持った山となり谷となって、船を持ち上げ奈落に叩き落すような荒業を見舞った。大波の頂上から落ちるとすぐに持ち上がって、また墜落していく。終りのないこうした繰り返しが目隠しされたのも同然の状態でつづくのである。船酔いにどんなに強い者でもところ構わず吐いた。吐く苦しさは嵐の恐怖を忘れさせるのに十分であった。
どうにか嵐をやりすごして死なずに晴れ間を迎えると、あとはもう妙に腹がすわって、ひたすら時が経つのを待つだけとなった。それがまた地獄の責め苦なのだ。しかし、読み書きを教わることで、退屈という責め苦もやわらいだ。先々よりも今のために役立った。
「こうした目に遭うのも生きていたればこそ」
負け惜しみではなく心から感謝する気持ちになると、何が起きてもしばらくの辛抱だからと達観できるようになった。読み書きで得た何ものかの恩恵であろう。死はみずから求めるものではないが、向こうからやってきてくれるなら救いである。強いて明かせばそれが音吉のたどりついた境地であろうか。だから、むしろ、油でも流したように静まり返ったときの海のほうが、かえって不気味だった。そんなときにかぎって鳥も寄りつかない。
鳥といえば凪の海に渡り鳥らしき水鳥の大群が浮かぶ中へ迷い込んだことがあった。網を投げて捕らえたとき群れが一度に飛び立ち、空を多い、あたりが暗くなった。その羽音は船が砕けるのではないかというほど大きく、突風まで吹いて船が傾いだ。単に不思議というほかない光景であった。こうして思わぬ「恐怖の報酬」を得て、しばらくは豪華な食事にめぐまれることもあったし、逆に群れからはぐれた一羽の渡り鳥が船べりに止まって羽を休めることもあった。取って喰いたい気が起きないでもないが、なぜかその気になれなかった。飛び立つときには「頑張れよ」と心の中で声援を送った。
いつしか一年という歳月が流れて、まわりを見まわすと重右衛門と音吉のほかに生き残ったのは岩吉という熟練の水主と久吉の四人だけとなっていた。頼みの重右衛門も陸地が見えるようになって病に倒れ、呆気なく臨終を迎えた。
「親方、陸が見えるじゃありませんか。それなのに……」
またしても自分たちを見舞う不条理な運命の仕打ちに音吉は憤りを覚えた。
四方八方にあるのは海と空だけ、絶望の構図に身を置いている間は安穏な気持ちでいられたのに、陸地が見えていながら海流の関係で接岸できないとわかったとき重右衛門は気持ちの平衡を失い、希望から絶望へ急降下するような喪失感によって残された気力を根こそぎ奪われたに違いなかった。
重右衛門は自分につききりで看病する音吉をじっと見上げた。
「おまえのお陰で生きられた。確かに人間は生きている間は人間らしく暮らすものだ。身をもってそれを教わった。今、陸地を見ながらこの世を去るのは残念でならないが、本来なら地獄を味わうべきところを充実した一年を送ることができた。お陰でよき思い出を冥土の土産にすることができる。教える喜び、人を育てる喜びは格別だった。もし助かったなら、音吉、俺の分まで存分に生きてくれ」
重右衛門はそれだけいうと満足そうに目覚めることのない眠りについた。音吉はまだあたたかい船頭の亡骸に取りすがった。この世に神も仏もないのかと号泣して、船板を叩いて悔しがり、久吉と岩吉になだめられてようやく落ち着きを取り戻した。そして、三人で念仏を誦しながら亡骸を桶に収めた。上陸できたら真っ先に埋めるつもりであった。そのつもりで陸を眺めるうちに鎖国という現実にふつふつと敵愾心がたぎってきた。父とも思い師匠として敬ってきたその人をもう少しのところで奪われたのだ。千五百石積みの船の構造がわざと外洋航海のできないようになっていることへの抗議めいた気持ちが、あらためて強く蘇った。
もしも日本に生きて帰れたら、まず船の構造から改めてやる。そのためにも鎖国をやめさせなければ……。
できるかできないかという考え方をしたら成り立たない夢物語であることはわかっているのだが、音吉は真剣に思わずにはいられなかった。
振り返ってみると、漂流してから一年二ヵ月の歳月が経過していた。宝順丸がオレゴン・カントリー(コロンビア地域)のフラッタリー岬に漂着すると、音吉と久吉、岩吉の三人は桶に収めた船頭の亡骸を陸地に揚げて埋葬した。そしてマカー族に拾われて暮らすうちにネイティブ・アメリカンと毛皮取引をしているハドソンベイというイギリスの会社の保護を受けたのである。時に日本暦天保四(一八三三)年のことであった。
