見落とされたもう一組の饗応
足利義昭の真木島追放から本能寺事件まで約十年の歳月が流れた。後世の史家から不可解と指摘される信長の行動はこの間に繰り返されたわけであるが、「左様て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見申し候」「信長の代、五年三年は持たるべく候」と予言した犯人にしてみれば信長の覇権が十年もつづいたのは誤算であった。信長の自滅は長くて五年先と予言した犯人を秀吉と断定すると、彼が不必要と思われるほど中国調略に時間をかけた事実が見事に対応する。
ただし、中国調略をサボタージュするだけでは身の破滅までモラトリアムを得るにすぎない。しからば、どうすれば、我が身の破滅を完全に回避できるか。秀吉は中国陣にどかっと腰を据えて安土をめぐる動きを注視した。しばらくは秀吉の目で信長らの動きを眺めることにしよう。
秀吉にとって明日は我が身と思わせるような事件が天正八年に起きた。八月十二日に信長が佐久間信盛を追放、追いかけるようにして八月十七日、林佐渡守、安藤伊賀守父子、丹羽右近を追放したのである。佐久間信盛、林佐渡守、安藤伊賀守父子、丹羽右近らの次は柴田勝家、羽柴秀吉、前田利家あたりが危ないのだが、利家本人は気づいていなかった。なぜ利家が危ないのかというと、桶狭間の合戦のとき彼が追放の身であったことが一番の原因である。疾風迅雷の桶狭間の合戦にタイミングよく駆けつけて密かに手柄を挙げたというのに利家は許されなかった。桶狭間に参戦した利家でさえ危ないのだから不参加の勝家、秀吉は推して知るべしであった。しかしながら、参戦して功を挙げた利家の帰参が桶狭間から一年後と遅れたのはなぜだろうか。
帰納的推理法でいうと、帰参が叶ってからの利家は利殖にふけり、戦場にまで算盤を持参した。のちに利家が佐々成政の軍勢に包囲された末森城へ救援に向かうとき、正室まつが金蔵から金銀を入れた皮袋を持ち出してきて夫に突きつけ、「金銀の蓄えよりは人数を多く召し抱えるように日頃からいっておいたものを、今、いくさ上手の佐々成政と果たし合うことになったのだから、この金銀を召し連れて槍でも使わせたらよろしかろう」と詰め寄ったくらいである。こうした性向も信長の心証を害する原因だったのだろう。
ルイス・フロイスが信長を野蛮とみなした謀反人荒木村重一族の誅殺は眷属を一人として許さない過酷とも残忍ともいえるものであった。明日はわが身と自覚する者にとっては悲壮な覚悟を固めさせる動機となり得るのに十分だつたであろう。ましてや荒木村重一族の誅殺は汚れ役である。だれもが尻込みしたに違いない。あえて利家に命じたこともまた彼に対する信長の心証を物語るようである。のちに至り信長はすで亡く秀吉も病没して次は家康の天下といわれるまさにそのとき、利家は新年参賀の席で幼い秀頼を膝に抱いて主上の座に座り諸侯のあいさつを受けるような軽はずみな振る舞いをし、しかも「諸侯がわしにあいさつを述べるようで気持ちがよかった」といった感想を残すなど軽率の謗りを免れない男である。その程度の軽薄さは日常的に繰り返されていたであろうから、信長が利家から利長への代替わりを強引に進めたと見るほうが見識に適うし合理的かもしれない。だから、明日は我が身とも思わず荒木村重の一族眷属の処刑を唯々諾々としてのけてしまった。
さて、ところで……。
信長の娘を閨房に迎えた武将としては、徳川、蒲生、丹羽、筒井、中川などの各氏のほか前田利長、廷臣では二条、万里小路、徳大寺の各氏であった。利長(利勝)以外の婚姻には政略的な意味合いがあったが、利長の場合には信長の覇権がほぼ確立をみているだけにその必要性は認められない。利長と信長の娘の婚姻がいかに破格であったかは、利家が現役パリパリで能登を領有する大名になったばかりの年に婚姻が成立し、奉行菅屋長頼が預かる織田直轄領越前府中城三万三千石が与えられたことでわかる。つまり、誠仁親王が践祚した暁には信忠が征夷大将軍となり、家康が後見、さらに利長が信忠の脇侍となって支える役割を付与されたと理解せざるを得ないシチュエーションなのである。
なぜ、このような事実を持ち出したかというと、子の利長を破格に取り立てるということは信長が利家を見限ったということであり、前田父子を柴田勝家の腹背に配置したということは次は勝家であると予告したに等しい。そして、勝家の次は自分と秀吉をして警戒させるのに十分ななりゆきであった。
岩沢愿彦著『前田利家』(吉川弘文館)は次の事実を告げている。
《前田利勝が信長の娘を娶った年は、ちょうど前田氏が能登一国を領知した年に当る。玉泉院と結婚した利勝は、前田氏が能登に遷ってからも越前府中に止まったと言われるが、おそらく利勝は織田家の奉行菅屋長頼に渡された越前府中に詰め、やがて府中三万三千石を与えられたのであろう。すると前田氏は加賀の柴田氏を挟んでその前後に置かれたことになる。信長がこの利勝夫妻を京都に呼んだのは、中国地方に出陣しようとする際であり、この時三河・遠江の徳川家康や甲斐の穴山梅雪も上洛している。中国に大軍を移動するに臨んで、東方地帯有力の大名を京都に召集したのは、あながち新知拝領の答礼をさせるばかりではなかったように想像される》
後世の史家に読み取れるほど明らかなことを当時の秀吉が気づかずにいるはずがない。利長と信長の娘の婚姻は秀吉にとっては重大決意をうながすほど衝撃的であった。
岩沢愿彦著『前田利家』はさらにつづける。
《利勝は玉泉院と上洛の途中、近江の瀬田付近で信長の小者に逢い、明智光秀の謀反と信長の戦死とを聞いた。そこでとりあえず譜代の奥村次右衛門と恒川久次に託して玉泉院を尾張の荒子へ退避させ、自分は安土城へ入った。そして蒲生賢秀の兵と合流して一旦蒲生郡の日野城へ退き、光秀が討伐されてから府中に帰ったという。この間の利勝の行動には異説が多く、的確には知りがたい。しかし明智光秀の行動は、六月六日の黎明から午前九時ごろまでに本能寺と二条御所とを攻め落とし、その夕方にはもう近江の瀬田を攻め、中二日おいて五日には安土城に入るという程迅速だったから、利勝のほうでも思い切った行動を取ったことだろう。彼が非常に危険な状況にあったことは「あつち(安土)御さいなん御のがれ候」という文言で確認されるが、この時、利勝に従っていた新参者や輿舁き人夫たちは大事を前にして逃亡した》
安土で饗応を受けたのは家康だけではなかったのである。
利勝の饗応と退避行動は時系列的にはもう少し先へいって述べるべき事柄と思われるが、傍系の事件としてあらかじめ念頭に置く必要性を優先してついでに述べてしまおう。文中「この間の利勝の行動には異説が多く、的確には知りがたい」とあるが、まったく同感で私としては「異説」を取りたい。利勝が安土城に入ったのなら玉泉院を道中の危険に長くさらしてまで尾張荒子へ退避させる必要はない。光秀が五日に安土城へ入ったというのはあくまでも結果であって、事前の段階では安土城に退避するのが安全策の第一であり、本来なら夫婦揃ってそうすべきなのである。しかし、事実は玉泉院を尾張荒子へ退避させた。ということは、そうせざるを得ない事情があったのだ。ただし、越前府中ではなく、なぜ、尾張荒子だったのか。
なぜ、利勝の行動が不明なのか。
目下、ここが埋めようのない空白部分なのであるが、わからないのだから仕方がないといって放置しておいてよいわけがない。まず考えられるのは夫婦して尾張荒子へ退避することだけはあり得ないということである。岳父を襲った奇禍を告げられて、利長はさらなる情報の収集に走ったであろう。この場合、自分は瀬田近辺に留まり玉泉院を先に退避させるのがごく自然で当然の判断である。
では、越前府中か。
山深い北国街道は危険が大きい。比較的平坦で迅速に駆け抜けられる中山道から東海道という経路が最適と思われるし、利長の念頭に本多正信が家康の避難路として確保した裏白峠、信楽、丸柱ルートがあったとすると、荒子で落ち合う考えに合理性が生じるであろう。
では、なぜ、玉泉院も一緒に行動しなかったのか。
時間勝負のときである。家康の到着を一緒に待ち受けるより、当座、玉泉院だけでも先に落とすのが保護者としての思いというべきであろう。
しかしながら、真相はなお闇の中である。
(つづく)
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真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ
これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
100パーセント真実といえる事実など時のかなたの当時以外には存在し得ないという大原則に照らすとき、いつまでもそれでよいのかという思いに駆られます。真相に迫る近似値を掘り起こすためにも方法論を用いて確かな道筋を模索し、一致協力してかかる時代の幕開けをもたらす必要があるのではないでしょうか。
そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。
◎疑問感受性
(解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)
◎見識物差し
(歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)
◎モンタージュ法
(踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)
◎因数分解解析法
(発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎セグメント抽出法
(踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎パターン物差し
(パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)
◎時系列物差し
(踏まえるべき事実を時系列的に相関させて一連の動きを筋道立てて掘り起こすセンス)
◎仮説検証法
(方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)
◎ジグソーパズル式多重モンタージュ
(最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)
記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。
どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。
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真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ
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◎仮説検証法
(方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)
◎ジグソーパズル式多重モンタージュ
(最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)
習うより慣れろ
本講座のモットーです。
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
記録にない事実を掘り起こす説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
これが真実だといいきれる事実はない、というのが本講座の基本認識です。
したがって真相を解明するというより真相の近似値を解析するのが本講座の目的ということになります。記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。
どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。
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