光秀謀反の火種・四国国分案(くにわけあん)の変更


時系列の物差しをもとに戻すと本能寺の変まで余すところ約二年……。
 天正八(一五八〇)年八月、信長、薩摩島津氏に宛てて「九州停戦令」を発する。
 天正八年十一月二十四日付、長宗我部元親、秀吉宛書状で「阿波・讃岐の三好氏を掃討したら中国攻めに協力する」と約束する。天正九(一五八一)年一月二十三日、信長は光秀に馬揃えの支度を命じた。
 天正九年二月二十八日、信長は京に諸大名を集めて馬揃えを挙行。柴田勝家、前田利家も参加。秀吉は不参加。
 天正九年三月二十五日、家康、信長に敵方から申し入れのあった内応への対処を相談し、勝手次第と言質を取ったうえで高天神城を奪回。
 馬揃えの不参加を秀吉は信長にどのようにいいわけしたのだろうか。家康が敵方から申し入れのあった内応への対処を信長に相談し、勝手次第と言質を取ったうえで高天神城を奪ったのは、独断専行ばかりして信長の殺意を募らせた秀吉とは対極のやり方である。

  その前に信長が京に諸大名を集めて催した馬揃えに秀吉が参加しなかった理由を考える必要がある。原因は信長が天正八(一五八〇)年八月付で薩摩島津氏に宛てて発した「九州停戦令」にある。島津氏に大友氏と和睦して九州から毛利氏を攻撃してほしいという内容だから、サボタージュを決め込む秀吉にはきついお灸である。総力を挙げて毛利氏と戦っているとみせかけるためにも馬揃えには列席できないというのが欠席の理由である。

  天正八年十一月二十四日付の秀吉宛書状で長宗我部元親が「阿波・讃岐の三好氏を掃討したら中国攻めに協力する」と申し送ってきたことも、尻に火がつく一因であった。長宗我部元親の背後に明知光秀の姿がちらつく。

 チキショー、そんなことされてたまるか。

  秀吉は起死回生策を練って、直ちに実行に移した。
 天正九年六月、信長は天正三年当時から光秀が提案してきた長宗我部氏による四国統治を取りやめ、秀吉が画策する三好氏による統治に変更。
 四国調略は本来なら七年前から土佐の長宗我部元親に働きかけてきた光秀が担当するはずであった。しかし、甥の秀次を同じ四国讃岐の太守三好康長の養子に入れていた秀吉が、信長に密かに働きかけて長宗我部元親と絶交させ、三好家に織田信孝を養子に送り込もうとしたのである。
 これぞ秀吉の極めつけの策謀というべきか。光秀をして信長に遺恨を含ませるための策謀というべきだろうか。これを機に秀吉と光秀の関係は悪化の一途をたどり、結果として四国国分案が光秀と信長の主従関係にまで皹を入れ本能寺の変の重要な伏線になったのである。

  天正九年七月十五日、安土城内惣見寺で、信長が盆の催しを盛大に挙行。
 天正九年八月一日、安土城で、信長が馬揃えを挙行。
 天正九年九月三日、信長が信雄に伊賀制圧を命令。滝川一益、丹羽長秀、筒井順慶が合力。
 天正九年九月、信長、秀吉に四国阿波・讃岐の長宗我部勢力の駆逐を命令。九月より十一月にかけて、秀吉、四国で長宗我部勢力と戦う。
 天正九年十月九日、信長が伊賀国視察に出立。翌十日、国見山に登山、滝川一益、信長の御座所御殿を築く。信雄、堀久太郎、丹羽長秀ら奉仕。
 天正九年十月二十五日、秀吉が鳥取城を「渇泣かし」で落とす。
 天正九年十二月二十二日、秀吉が安土城へ伺候、信長に鳥取城奪取を報告。このとき秀吉は安土城内の女房衆などへも贈物をした。女房衆に取り入って信長の気持ちを前もって探ったものと思われる。

  サボタージュして保身を図ってきた秀吉であるが、信長にこれでもか、これでもかと尻を叩かれ、これまでとは一転して四国に、山陰にと戦闘に明け暮れ、目に見える結果を示した。それでも安心できないで、安土へ伺候しても、事前に女房衆に取り入って信長の気持ちを前もって探らなければならなかった。
 ただし、もう一つの見方がある。四国の長宗我部駆逐は秀吉から信長に願ったとする考えである。秀吉の画策で信長と敵対することになった長宗我部元親は毛利氏と和睦して同盟関係を結んだ。三好氏を征伐して中国に渡って来られたら、今度は敵にまわっているだけに厄介千万である。とても三好などには任せておけなかった。
 しかし、さいわいなるかな、秀吉は阿波・讃岐から長宗我部勢力を駆逐することに成功して、三好氏に堅く守るよういい含め、信長を四国攻めに誘い出すべく何食わぬ顔で安土城に伺候したのであった。秀吉の脳裏には変更後の四国国案にある「信長淡州出馬の刻に至り云々」の文面がしっかり焼きついていたのだろう。

  天正九年十二月、前田利勝(利長)、信長の娘と結婚し、越前府中襲封。
 これがどれほど大きな意味を持つかは前に述べた通りである。
 天正十(一五八二)年一月一日、織田信長、誠仁親王が天皇に即位したときに迎える本丸御殿の御幸の間を広く一般にまで公開。信長はみずから百文の礼銭を受け取る。
 天正十年三月十一日、武田勝頼、自刃。
  なかなか信忠を後継者に認めなかった信長が、武田勝頼を滅ぼした直後、ようやく信忠を跡取りにしてもよいとする発言をした。それを受けてのことと思われるが、「秀吉、中国陣で『我、軍中にあるならば、強いて諌め申して、勝頼に甲信二州を与えて関東の先陣としたらんに、東国は平おしにすべきに』と述懐、溜息をついて悔やむ」という事実がある。
 

秀吉はのちに小田原を攻めるとき、徳川家康と織田信雄を先鋒を命じて平押しにした。武田勝頼が徳川家康、織田信雄に入れ替わったわけである。このときの考えが下敷きになったものであるが、さらに一段と手の込んだ悪魔的詐術を用いている。小田原合戦についてはもっとずっと先にいって言及するので、このことをきちんと記憶しておいていただきたい。天正十年当時、秀吉が信長を批判的に見ていたという事実を裏づけるもので、問うに落ちず語るに落ちるとはまったくこのことである。 

  天正十年四月二十一日、信長が安土城に帰陣、直ちに信孝に四国攻めを発令。
明智光秀にとっては不満の残る信孝への四国攻め発令だったろう。本来なら、光秀に命令が下るはずだったのだから。そしてまた、秀吉も悔しがった。ここで信長が「淡州出馬」をしていれば、本能寺事変を待つまでもなく、光秀は謀反を起こしたはずだから。
(つづく)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 


真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ

これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
100パーセント真実といえる事実など時のかなたの当時以外には存在し得ないという大原則に照らすとき、いつまでもそれでよいのかという思いに駆られます。真相に迫る近似値を掘り起こすためにも方法論を用いて確かな道筋を模索し、一致協力してかかる時代の幕開けをもたらす必要があるのではないでしょうか。
そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。


疑問感受性
 (解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)


見識物差し
 (歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)

モンタージュ法
 (踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)

因数分解解析法
 (発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)

セグメント抽出法
 (踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)

パターン物差し
 (パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)

時系列物差し
 (踏まえるべき事実を時系列的に相関させて一連の動きを筋道立てて掘り起こすセンス)

仮説検証法
 (方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)

ジグソーパズル式多重モンタージュ
 (最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)



習うより慣れろ
 本講座のモットーです。
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。


記録にない事実を掘り起こす
 これが真実だといいきれる事実はない、というのが本講座の基本認識です。
したがって真相を解明するというより真相の近似値を解析するのが本講座の目的ということになります。
記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。 

どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。




ブログランキングに参加しています。
↓ポチッとお願いします↓
人気ブログランキング