織田軍団躍進の原動力・桶狭間不参組の逆バネ



 信長がリストラを完全に断念したわけではなかったということは、安土城の天守が完成した翌年、突然、佐久間信盛らを追放した事実から明らかであるが、遥かな歳月に隔てられた当時、原因がわからないだけに憶測が憶測を呼び家臣団は疑心暗鬼に陥って本能寺の変の遠因となる微妙な空気を生み出した。
 これも一つの見方であろう。
 ジグソーパズル式歴史考証法はこのように時系列を自由に行き来して「コマ」と「コマ」の整合性を確認していく必要がある。そうすることで矛盾の有無が明らかになり、解釈の平板化を防ぐことにつながるからである。
 それはさておくとして。
 結局、信長はリストラをただ断念するようなことはしなかった。柴田勝家が「今後、信長に足を向けて寝てはならぬ」と暗に脅かされたように、秀吉も信長からきついお灸を据えられたはずである。
 前田利家の帰参を一年近く遅らせたのも同じ理由からだろう。すでに勘気を受けて追放の身だった者、桶狭間に遅参、不参の者、彼らの負を穴埋めしようというエネルギーを信長は最大限に活用しようとした。
 遅参組の佐々成政がよい例である。

《小ばた原から星崎道についたところ、すでに信長公は善照寺へ向けて御出陣されたとのこと、佐々内蔵助殿の家臣が伝えてきた。そして、主人隼人と内蔵助は鳴海の敵を攻めているが、小人数ゆえ此方に加勢されたい、信長殿の後を追われても、もはや手遅れであるという。見れば前方の鳴海の方に黒煙があがっている。隼人殿、内蔵助殿の安否が心配となったので、鳴海に向かって駆けたが、竜泉寺表から鳴海表へ向かった者は、佐々平左衛門をはじめ、丹羽源助、今井小四郎、桜井甚右衛門、柏井衆、小坂孫九郎(雄吉)、村瀬九左衛門、前野新蔵(直高)、足立彦兵衛、平井久右衛門、吉田四郎兵衛、前野喜兵衛等々二百余人であった。
 ところが、鳴海では、すでに佐々勢は大崩れとなり、大方は討たれていて残るは数十人という状態であった。内蔵助(佐々成政)殿の兄・隼人殿は乱戦の中で討死。
 内蔵助殿は無念のあまり、今一度合戦を挑んで討死することこそ本望とばかり、馬を返して駆けいこうとしたが、桜木甚助が轡にとりすがり、
「我らとて、この場にのぞんで一命を惜しむものではございませぬ。が、先年は孫助殿が稲生で相果て、今また殿が亡くなられて佐々家は内蔵助殿お一人である。内蔵助殿を失うことがあれば佐々家を立てる者はいなくなりましょう。敵は多勢で味方は少数、所詮、勝算なきこの合戦なれば、織田殿の御馬前において戦い、討死することこそ本望といえましょう。信長公はすでに小人数を率いて善照寺へ向かわれる、との連絡があったゆえ、遅ればせながらも善照寺に駆けつけ、織田の殿の御馬前で相果てることこそ武者道というもの……」
 といえば、内蔵助殿は己の取り乱したさまを恥じいり、柏井衆とともに善照寺へ向かったのであった。
 時に永禄三年五月十八日である。
 このとき、一天俄かにかき曇り、大雨となった。たちまち道路は変じて川となり、心ははやるものの、悪路のため思うように進めず、隊列は乱れて方向すら定め難くなり、きわめて難渋したと後日の祖父(小坂雄吉)の話である》

 雨中の訓練を積んでいないから、「心ははやるものの、悪路のため思うように進めず、隊列は乱れて方向すら定め難くなり、きわめて難渋」ということになるのであり、信長は最初から正規軍は当てにしなかったであろうから、それはそれで致し方なかったわけで、成政の場合はむしろ見事な対処であったというべきである。
 また、
「所詮、勝算なきこの合戦なれば」
 というのが非正規軍以外の認識であったと思われるから、成政の行動は百点満点に近い。それなのに、

《永禄三年の田楽狭間での遅参は、功名にはやる佐々衆や我らにとっては、悔いてもあまりあった。
 隼人殿は討死し、郎党は多く討たれたにもかかわらず、さしたる戦果も挙げることはできなかった。したがって、清須城での戦勝の嘉儀にも、外聞も悪く、ひたすら下座で沈痛するしかなかった》

《佐々内蔵助は先の田楽狭間での恥辱もあって、このたびは名誉を挽回すべく先手を承り、手勢千五百余騎を率いて梅坪へ向かい、三州勢と対峙した》

 信長の馬前でめざましい働きをして名誉を挽回したというのだが、『武功夜話』が江戸時代初期に記録されたことを考えると、桶狭間必勝のピンポイント戦略がいかに厳しく秘密裏に葬り去られたかを意味する。それによって信長のカリスマ性が確立されたのだから、信長は桶狭間の勝利に酔いしれることなく、即座に次を見据えたわけである。リストラを先送りしたのも、不参組、遅参組の以上のような逆バネを活用することに意義を見出したためと思う。
 佐々成政にしても、事情が明らかになれば、恥とすることもなかったであろうが、いかにせん、釣った魚があまりにも巨大だったし、田楽狭間参戦組の喜びがあまりにも大きかったばかりに、釣り逃がした者の落胆は常のものではなくなってしまったのだろう。
 柴田勝家のその後の活躍もまたしかり、秀吉もまた信長の天運を再確認した思いで、小一郎秀長を陰で操り、あるいは立てて、必死の奉公に励んだ。秀吉を掣肘するパターンが生じたのは、どうやら、偶然のなりゆきの要素が色濃くなったわけであるが、
「信長に足を向けて寝られまい」
 勝家にいったごとく、
「外向きのことに関しては秀長の意見を重んじ、内向きのことではお寧のいうことに従え」
 信長は秀吉にこれぐらいのことはいったのではないか。そして、さらに次のように釘を刺したことだろう。
「以上のことを条件にこたびは特に大目に見るが、ただし、田楽狭間のことは厳に口を慎め。よいか。藤吉にとってもあまり名誉なことではないはずだからな」
 信長がいうまでもなく秀吉が自分の「恥」になることを口外するはずがなかった。かくして秘密は保たれた。秀吉が清洲城に残ったとするほうが合理的に説明がつくといったのは以上のような理由である。

(つづく)




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