桶狭間勝利の方程式は信長と秀吉の合作
木下藤吉郎が蜂須賀小六の使用人から出発して、主人の小六とぼぼ同時に織田家に仕官したのは間違いない。問題は小六や前将が信長に仕えたとき、秀吉は二人の下風についていたはずだが、いつ逆転したのかということである。
桶狭間当時の小六と前将の行動を検証してみよう。
《村長を先頭に御酒樽、勝栗、昆布などを準備していたが、かねて村長の藤左衛門と親しかった蜂須賀党の面々は、これを利用することを思いつき、百姓たちになりすますと、街道へ出て今川治部少輔の御輿の通過を待ち受けたのであった。
大将の蜂須賀小六(正勝)殿に率いられた面々は、前野将右衛門(長康)、蜂須賀小一郎、村瀬兵衛門、同於亀、武藤九十郎、小木曾平八、稲田大炊介(植元)、前野右京進ら屈強の者、十八人ばかりが衆人に紛れ込んで大道に出たという》
小六は信長の急雨を利用した必勝作戦を知らないのだから、この日の行動は今川方と同じレベルで判断した結果だろう。すなわち、「午後になってあの雨がきたら困るから早めにやりすごす準備にかかろう」というのが双方の共通認識であったと思われる。
だから、義元が田楽狭間で休息する判断を下したように、当日の判断は小六が下したとみてよい。信長から見て殊勲甲の働きである。しかし、田楽狭間で作戦行動を取るための事前の示し合わせはだれがしたのか。屈強の者ばかり十八人もはるばる田楽狭間に出向いてかねてより親しかった藤左衛門を利用することを思いつくのはよいとしても、藤左衛門が危険を顧みないでなぜ御酒樽、勝栗、昆布などを準備していたのだろうか。
物見遊山の行列を迎えるのではない。相手は織田領を侵しにくる敵軍なのである。いくさとなれば戦う前からそれなりの厳しい心構えがあり、敵軍来るとなれば真っ先に逃げ出す百姓が酒を用意して迎えるなど、今川方にしてみればまさに「不遜の輩」である。
《正午頃と思われる。下手から十数騎の武者が、砂煙をあげて駆け来たった。そして、馬上から大声を上げて、御屋形様のお通りである、目ざわりであるから、直ちに、この場を退散せよ、さもなくば不遜の者として、この場において斬り捨てる、と呼ばわったのである》
こういう危険な役まわりだけに、事前に示し合わせて覚悟を決めていないと務まらなかったであろう。もちろん、小六と前将に三州境へ行けと命じたのは信長である。だから、正規の軍事行動であり、信長も承知の作戦行動である。それを見事にやり遂げた。
しかし、時系列を三ヵ月ほど遡って生駒屋敷に場面を戻すと、
《信長様は踊りの手を休めず、不敵な者どもが来たか、今宵は無礼講であるから何者なりとも参れ、と申されたので両名は御前に罷り出たところ、その場に木藤(木下藤吉郎)殿がいなかったので、二人は顔を見合わせたまま、いうべき言葉も知らず、さながら鷹に見据えられた小鳩のようであったという》
結果としてこうなったから記録しているのであって、『武功夜話』の記録者はいわれた通り筆記しただけなのだろう。逆に、だからこそ信憑性があるわけである。しかしながら、「その場に木藤(木下藤吉郎)殿がいなかったので、二人は顔を見合わせた」という文節は理解に苦しむ。
それに何の意味があるのか。
意味はある。だが、質問しなかった。すでに太閤秀吉が存在した後の時代の筆記だから、それがバイアスに働いてなんとなく納得してしまった。話して聞かせたほうも桶狭間当時の人間ではなかったから、前将の言葉を聞いた通りそのまま語ったのである。聞かされたのは関白秀次切腹以前で太閤秀吉の頃だから、なんとなく納得して「藤吉郎がいないくらいで、なぜ顔を見合わせたのか」という疑問も質問も思い浮かばなかった。
二人が顔を見合わせた理由は二つほど考えられる。
一つ目の理由は、秀吉はその場にいなければならなかったということ。秀吉は二人よりも先に信長に目通りを得ることになっていたという前提でなければあり得ない反応である。
二つ目の理由は、一つ目の理由を受けてのことになるが、秀吉がいなければ困ることがあったということ。ただし、それが何かは前述の質問がなされなかったため、最早、知るすべは失われてしまった。
だが、信長は小六と前将に田楽狭間で作戦行動に従事せよと命じた。問題はその作戦行動の発案者はだれかということである。発案者が信長だったらそういう書き方をするだろうから、「その場に木藤(木下藤吉郎)殿がいなかったので、二人は顔を見合わせた」の記述で秀吉の発案であることが決定的になる。
今川上洛の事実を小六と前将がつかんだときには秀吉もその場に居合わせたのだろう。そして、秀吉は二人をうまくいいくるめて信長のいる生駒屋敷に先行させた。
「これからでは夜分になろうし、いきなり不用意にお知らせしてご機嫌を損じてはもうしわけない。さいわい自分に一計があるから、それを先に申し上げてからお伝えするほうが、今川上洛の報告を前向きにお聞きくだされよう」
その一計について概略ぐらいは二人に伝えたかもしれない。秀吉はそうしてから飛び出した。ところが、途中で何か故障が生じて行けなくなった。小六と前将は何も知らずにやってきて強いて信長に面会を求めたところ、その場に秀吉はいなかった。秀吉が先に一計を伝えていると思えばこそ押して目通りを願ったのである。今川上洛を報告するだけだったら取次ぎを通せば済むことであった。さりとて、一計なるものは秀吉がいなければ説明のしようがない。かくして、普段の二人ならあり得ないことに「顔を見合わせたまま、いうべき言葉も知らず、さながら鷹に見据えられた小鳩のようであった」というザマを見せてしまったのだろう。
小六と前将は信長に訴えた。
「日頃のご恩に報いるため、直ちに我ら川筋の者を糾合下されば、その数は二千を下りますまい、寸時を惜しむときなれば早々にご用命下さるべき」
「この期にのぞんで何の手だてがあろうか。所詮、労あって益なしとは、このことである」
信長は二人にそういって呵々大笑したという。
川筋衆など当てにしないでも、そのための兵力はすでに用意した。問題は村雨が降るか否かだけ。降らなかったときは弓矢の家の名誉を賭けて戦って死ぬのみ。呵々大笑は信長の自信と覚悟の表われであろう。信長のこの呵々大笑がのちのちまで二人を悩ませるのだが、桶狭間の神がかった勝利を経てあらためて信長の神算に脱帽するのであった。と、まあ、『武功夜話』の記述はこういう仕掛けなのであって、肝腎の中間が抜け落ちただけなのである。
その中間にくるのは秀吉の献策を信長が採用する場面でなければならないのだが、語られなかったのだからしようがない。しかし、その事実があったとしないと、歴史事実そのものが成り立たなくなってしまう。
省かれた前段にくるのが秀吉の不在と彼に向けられたであろう小六と前将の怒りである。秀吉がなぜ不在だったのか理由は不明のままにしておくとして、小一郎秀長を呼んだのは小六と前将の怒りを躱すか宥めるためだろう。小六と前将は信長から命令され仕方なく秀吉の代理として小一郎秀長と一緒に田楽狭間で行動し、絶大な戦果を上げた。
さて。
小六と前将にしてみれば、信長の大勝利であるにしても、その功績の一半は秀吉に帰するという思いがある。秀長の人柄にも偉人の風を感じた。桶狭間の合戦の一日で、小六は卓越した才智を発揮した秀吉に、前将は実直で物事に動じない秀長の人となりに惚れ込んだのではなかったか。合戦が終わってみれば小六、前将ともあろう者が二人揃って秀吉と秀長に心服してしまって、どちらが親玉かわからなくなっていた。
おや?
信長は蜂須賀党、前野党の変化に気づいて、秀吉と秀長という兄弟の能力にあらためて目を向けて高く評価した。すなわち、桶狭間の合戦は信長の運命の転換点であっただけでなく、秀吉と秀長の運命も一変させたわけである。
