ここで仮説なるものについて言及することをお許願いたい。
刑事訴訟法が旨とする「弾劾的な捜査法」の基本はバイアス(先入観)の徹底した排除である。仮説検証は見込み捜査最大の原因であって、みずからをお手盛り解釈に導きやすい危険な方法ではあるが、ここで仮説を立てないと解析が先へ進まないという場合は大いに活用しなければならない。
すなわち、秀吉は信長を殺害する必要に迫られていたという仮説上の事実が先に現実になっていないと、あとにつづく大和大納言家断絶、千利休殺害が意味をなさない。大和大納言家断絶、千利休殺害が、なぜ、本能寺の変につながりを持つのか、今は「同じ穴の狢だから」とだけ述べておこう。
着眼点としては光秀の決断があまりにも突発的で見切り発車的だったことである。しかし、決断をうながす仕掛けは早くから機能していた。こうした隠された背景をわかるように述べるには段階を踏まないかぎり不可能である。信長暗殺を決断する伏線が早くから張られていたとするからには、それを証明してかからないといけないのだが、縦糸横糸が錯綜する現時点ではそういうものとして話を進めるしかない。緻密な頭脳の持ち主といわれた光秀が「振り返ってみたら杜撰な企てを強行していた」という事実が問わずして語ることは、光秀にとっては信長暗殺の機会到来が「刹那的」であったことを示唆しており、逆に黒幕の嫌疑のかかる秀吉には周到に策謀をめぐらせる時間がたっぷりあった可能性が大であるということだ。
安土城の信長と坂本城の光秀が互いに相手の出方を見ながら次にどう行動すべきか虚々実々の駆け引きを展開したと仮定すると、信長にしてみれば光秀を援軍として派遣したからにはなおそのうえに自分まで行く必要はないのであって、過去に島津氏と秀吉にした約束の手前「行くというポーズ」をみせただけであり、本能寺から安土に引き返すつもりだったのかもしれない。
過去の約束を証文に取って信長を安土城から呼び出そうとした秀吉の立場で考えても、信長が備中高松までくるとは考えなかっただろうし、ましてや光秀が応援に差し向けられるなど想像の外であったに違いない。そういう意味で光秀の反転暴発は秀吉にとっては怪我の功名であった。中国陣には援軍を必要とするようなシチュエーションなどゼロに等しかった事実からして、光秀の派遣はいざというとき信長が光秀に命じて秀吉を討つ考えだったという推測すら成り立つ。あり得ないことではあるが現段階はそういうことにしておく。
いずれにしても本能寺の変の直接のきっかけとなったのは信長に対する秀吉の無用の来援要請であるが、動機は第1回講座で述べた太田道灌のパターンの通り下剋上をやらなければ我が身が危ないこと、さらには「外向きのことは秀長が決め、内向きのことは於寧が決めよ」という秀吉に対する掣肘の箍が加わる。秀吉らしからぬいたずらな中国長陣を問題視する必要性もこのあたりの事情から生じるのである。ありとあらゆる観点から分析すると状況証拠の点で秀吉は真っ黒になってしまう。
振り返ってみれば、秀長亡きのち秀吉がやったことといえば、聚楽第の新築、伏見城築城、伏見城の修築、聚楽第の破却、あるいは無謀というほかない二度にわたる朝鮮侵攻など巨額の出費を必要とすることばかり、その費用を捻出させるために過酷な検地を繰り返すなどの悪循環で、当時は怨嗟の的だった。大和大納言家、関白秀次家の断絶、それを受けての聚楽第の破却、秀吉の隠居所としての伏見城の新築と修築などがすべて三歳にもならない秀頼の将来を見据えて構想され、決行されたのである。秀長と利休を除いた後の秀吉は、世の中、世の人のためになるようなよいことなど何一つしていないという驚倒すべき事実……。
当然の帰結として、人望のある秀長の死が秀吉の不人気を殊更に強調するという皮肉な結果になった。
どんなに曇った目で見ても以上の事実は秀吉を英雄とする根拠にはなり得ないのであり、戦前と敗戦直後頃までの太閤人気、秀吉の人気は当時のものではない。立身出世にのみ着眼して後世につくられたサクセスストーリーであり、史実とは別次元のフィクションなのである。そういう意味では最近の世論調査で秀吉人気が信長、家康に大きく遅れを取ったことは心強いかぎりである。事実の持つ重いパンチがボデーブローのように効いて、「バイアス太閤記」のノックアウトへ一歩も二歩も近づいたことを物語る兆候であろう。
吉川英治の『新書太閤記』のうち秀長が死ぬまでの秀吉像は確かに英雄の評価にふさわしいものがある。しかし、吉川英治があえて秀吉のために考えついた造語「大気者」といわれるほどの人物が、ある日、原因もなしに暴君・狂人に豹変してしまうなんてことが理論として許されるだろうか。
吉川英治はあり得ないと結論を下したからこそ権力者に上り詰めたことを理由にして人格的な一貫性を保とうとしたわけであるが、だとするとだれかれかまわず権力者にはろくな人間がいなくなってしまう。このような理解の仕方でよいのかと、吉川英治自身も半信半疑だったからこそ、疑問というかたちで表白するほかなかったに違いない。
これで一プラス一イコール四に見えた仮設群が仮にわずかながらであっても「一プラス一はやはり二」に近づき始めたことと思う。
