刑事裁判で状況証拠の積み重ねのみで有罪を立証する「推認」の効力が認められるようになったように、日本史解析でもかつてのような「資料にないことには触らない」という頑なな資料主義から脱して、新しく掘り起こした事実の活用はもとより、シチュエーションから導かれる推認事実をも踏まえた解析法の導入に舵を切る必要があるのではないだろうか。
そうすれば、以下のような大胆な推理洞察が可能になる。
まず、推理洞察の切り口となる事実の第一は、国民的愛読書『新書太閤記』の著者吉川英治のコメントである。
「秀吉ほどの英雄でも晩年に至って権力の座に上り詰めると人間的にかくも堕落してしまうものなのだろうか」
吉川英治のいうように『太閤記』の主人公の人格が途中で豹変するのは動かしがたい事実であるが、主人公の性格が理由もなしに一変してしまうようなことは現実には起こり得ない。精神疾患以外の原因では現実にあり得ないことだし、小説ならなおのことあってはならないことである。だからこそ、吉川英治は困惑して以上のごときエクスキューズを試みざるを得なかったのだろう。
では、本当の原因は何だろうか。
考え方としては「振り返ってみれば一プラス一は常に二」しかないわけだから、桶狭間合戦のときと同様に歴史的事実に問題があるというより、解析する側の考えに不備があるわけである。
時系列の目盛りをずっと後に進めると、大和大納言秀長が亡くなるのは天正十九(一五九一)年一月二十二日のことである。駆けつけた秀吉は秀長の亡骸に取りすがって、号泣し、呼びかけた。
「大納言、俺を独りにしなや」
一人にするなという秀吉の言葉に私は衝撃を受けた。いみじくも本人が「俺を一人にしないでくれ」と表白したように、秀長が死ぬ前後の秀吉が「本当の秀吉像」ということになってしまうからである。
吉川英治が嘆いた「秀吉ほどの人物でも権力の座に上り詰めると云々」というような観念的な理由ではなかったわけである。菩薩のような秀長の姿に隠れていた秀吉の本性がようやく目に見えるかたちで現れた。ここに着眼できなかったら『太閤記』の解析は意味をなくしてしまう。
大和大納言秀長の発症と死はそれほど大きな意味を持つ。秀長の死が未解明の『太閤記』中の疑問点の一つ、千利休の死につながっていくからである。しかしながら、秀長や利休よりも前にこの世から抹殺しなければならないのが、秀吉の自由を掣肘するに至った元凶の信長であった。筋道としては秀吉が信長を殺害することが秀長と利休を除くことより先にこなければおかしい。しかし、われわれはすでに本能寺の変がどのようにして起きたか、その経緯を見てしまった。すでにその人はこの世の人ではない。ましてや信長を殺した下手人は明智光秀であって、秀吉ではない。秀吉は信長の仇討ちをした忠義第一の功臣なのである。
