思いもよらない全体解明のキーマン


 いずれにしても、これほどの関わりを持つ本多政重研究が看過されてきたこと自体が驚きである。と、いうよりも、「逐電父子」というべきか、何かしら大きな目的のために本多佐渡守正信と政重父子は主君にわざと叛いて逐電している。それでいながら訴追されていない。

 さて。

前田まつの人質応諾は家康の大きな誤算であった。それと同じ見方から、政重を直江家に入婿させる試みが延期になったこともまた、誤算のうちに入れて考えなければ筋が通らない。上杉景勝にとっても、直江兼続にとっても、戦後の保険ともいうべき政重が宇喜多家に仕官してしまったのは大きな誤算だったはずである。

それなのになぜ家康の討伐宣言を受けて立ったのだろうか。

答えは結果が原因であるとすでに述べた通りであるが、さらに付け加えるならば政重と阿虎が相思相愛の恋愛関係になったため政略結婚の必要性が薄れたということである。

「時間をいくらかけてもいいから何としても阿虎殿を妻に迎えたい」

政重が実際にそういったかどうかはわからないが、「瓢箪から駒が出た」式に政略の縁談から恋愛が飛び出したお陰で縁談を延期しても会津上杉家は何ら不利を受けず、家康もまた使えるカードが二枚になったようなもので、むしろ、好都合になった。

家康と景勝、兼続はそれでよいとして、ほかに悪影響を蒙る者はなかったのだろうか。結果から類推しておそらくいなかったと思う。これが偶然のもたらす神慮というものだろうか、最初から企てたらここまでうまく事が収まったかどうか。歴史は常に偶然の要素を加味して考える必要があるという、まさにその例証である。

あるいはまた考証を宇喜多家仕官から始めたら、政重がそうする理由の解明は暗礁に乗り上げたまま断念のやむなきに立ち至っていたと思う。戦国版ロミオとジュリエットともいうべき政重と阿虎の恋を掘り起こしたお陰で、慶長九年に起きた大国実頼の刃傷と逃亡、政重と於松の結婚、その一年後の於松の病死、それにつづく慶長十四年の政重と阿虎の結婚という一連の流れを混乱せずに読みきることができた。

こうしてみると、政重の身の処し方が周囲に及ぼす影響がどれほど大きかったか、とことん追究してみたくなる。実際、追究してかなり具体的にシチュエーションを再現するに至って衝撃的なくらい感動を覚えたのであるが、その絵解きは関ヶ原合戦の場で行うことにして今は予告に留めておく。

実は関ヶ原戦譜の考証に着手した当初は正木左兵衛を名乗る政重が決め手のキーマンとして浮上することなど予想もしなかったし、これまでの考証レベルは平成十二年に上梓した『関ヶ原決戦』の域を出なかった。今となってみると「どこに目がついているのか」という思いで恥ずかしいかぎりである。これが考証を避けては通れない歴史小説執筆の怖さである。だが、書かないかぎり考証もないわけで進歩など望むべくもない。

他方で、あのままでは浮かばれない、という悔いが残るのも事実である。まだ原稿の段階なら直せば済むし、一冊二冊ならば焼き捨てて痕跡をなくすことも可能である。しかし、何千という単位でどこにあるかもわからない状態ではどうすることもできない。

そこで思うのだが、特許庁のような日本史の考証結果を登録する機関をつくって情報を公開し、訂正情報、最新情報などが共有できるようにしてはどうだろうか。

 後で訂正が利くことで考証が杜撰になったのでは話にならないが、そうなったとしても個人のこころがけの問題であって機関のせいではないのだから、歴史小説執筆者の気持ちのケアとして実現したら嬉しいし助かる。

 さて、ところで……。

 そもそも本多政重とは何者なのであろうか。

 勿体をつけて最初に明らかにしないといけない疑問を最後にもってきたわけであるが、わかっているのは断片的な足跡だけで踏み込んだ内容はあまり伝わっていない。残念というか、当然というか、それが身分や立場を超えて働いた人物に共通のパターンであり、政重などは生没年がはっきりしているだけまだましなのである。

 政重が歴史の表舞台に登場したのは、慶長二年、徳川秀忠の乳母の子岡部荘八を斬り殺して江戸から逐電したのが最初である。正木左兵衛と名を変えて伊勢山田に潜伏した後、敦賀城主大谷吉継に仕官したという。

 慶長二年がどのような年であったかというと、越後上杉家が蒲生秀行のいる会津若松城へ移る話が進行しつつあったさなかである。現実に越後から会津に移るのは慶長三年一月十日であるが、会津の蒲生秀行を宇都宮へ、越後の上杉景勝を会津へ、越前北ノ庄の堀秀治を越後へ、いわゆる三方領地替えという大仕事だから半年や一年前には話題になったであろう。

 第一次朝鮮征伐につづいて第二次朝鮮征伐が勃発した当時、世の中の不満は「もはや殿下が死ぬのを待つほかない」というところまでいって頂点に達した観があった。そうしたさなか、秀吉の健康問題が浮上してきた。と、なると、上杉謙信を神格化して崇め越後を父祖の地とする上杉氏を会津に移すというような真似は時限爆弾を仕掛けるに等しい暴挙であった。それも何のためかといえば伊達対策だという。

 身から出た錆びというべきか、小田原攻めで発した皆殺しの軍令が後々まで尾を引いたもので、家康なら無用の政宗対策が秀吉になると深刻な脅威になってしまう。それにしても越後から会津への転封は上杉氏に対しては無頓着というほかない強引なやり方であり、秀吉の欠点を露呈する事件と見るほかないのだが、本人は事件と思わないまま死んでしまった。そして、大方の記憶は薄れてしまうのだが、こころある者にとっては秀吉死後を思うとき、明らかに憂慮すべき大事件であった。そのときは確実に近づきつつある。もし、無為無策のままそのときを迎えたなら、上杉景勝が越後の堀氏に対して何らかの行動を取るであろうことは歴然としていた。

 さて、ところで。

家康は過去に何度か煮え湯を飲まされてきた因縁の深い真田昌幸対策に大きな比重を置いていた節がある。昌幸はかつて上杉氏と同盟して徳川北条同盟軍と対抗した時期があり、そうしたいきさつから上杉氏と昌幸は意思の疎通が極めてよかった。家康もしくは本多佐渡としては双方を取り込むことができればそれに越したことはないのだが、なかなか一筋縄でいきそうもないし、さりとて敵にまわすと厄介である。当座、どちらかでも味方につけてと思案をめぐらせるところへ会津転封という上杉氏を取り込む絶好の機会が生じた。しかし、どうすれば上杉景勝が徳川になびくか、そうしたさなか政重は岡部荘八を斬って江戸から逐電して大谷吉継を頼って仕官したのである。

三成も岳父宇多頼忠の長女が昌幸の正室になっており直接ではないが姻戚関係にある。家康も腹心本多忠勝の娘を長男信之の正室に送り込んで懐柔に努めてきた。吉継は自分の娘を真田昌幸の子信繁(のちの幸村)の正室にやっていたから、三人の中で最も深い姻戚関係にあった。

 のちに引く手あまたとなる政重があえて数ある仕官先の中で吉継を選んだのは一挙両得をねらって上杉氏と真田氏にわたりをつけるためだったと考えられる。だとすれば政重の思いつきというより家康なり父親本多佐渡の差し金だろう。そうであったとすると、岡部荘八殺害は大谷家に仕官する条件をつくるための計画的犯行だったことになる。重罪というより大罪といってもよい罪を犯しながら訴追された形跡がない事実が計画的犯行説を裏づける。上杉氏との関連についてはすでに述べた通りだが、慶長十九年に起きた大坂冬の陣において、政重は加賀前田勢の先鋒を指揮する身でありながら真田丸に乗り込んで幸村こと信繁を最後まで説得しようと努めている。後々のそうした行動を含めて考えると一挙両得のねらいもあながち根のないことでもなさそうに思われてくる。

 すなわち、家康の戦後対策の本命は上杉・真田であり、そのキーマンが政重という構図で考えると、家康が秀忠を中仙道にまわし、本多佐渡を参謀につけた理由がそれとなく透けて見えてくる。中仙道隊の一番の目的は真田の動きを封じるためで、関ヶ原にきてはならなかったのである。それなのに真田包囲網を解いて大津に駆けつけたため、家康は激怒したのであり、遅れたことが理由ではないのである。こうしてみると「関ヶ原合戦」という大木が土中に張った根は実に入り組んで複雑である。

 以上、全体解明のキーマンが政重であることが判明したことで、次はだれにスポットライトを当てればよいか、自動的に決まったようなものだ。政重を池に投げ込んだ石になぞらえると最初に生じた波紋に該当するのは大谷刑部吉継その人以外ではあり得ない 
(つづく)




ブログランキングに参加しています。
↓ポチッとお願いします↓
人気ブログランキング