戦国史の底流を力強く貫く本多父子の不思議な生涯


 大谷吉継のことに言及する前に、ちょっと閑話休題。

犯罪心理というと譬えとして言葉が適当ではないかもしれないが、同一人の犯行は手口が酷似するという。いわゆる犯罪パターン、考証でいうところのパターン化であるが、本多佐渡守正信も例外ではないとすると、政重の犯行と逐電は父親の教唆である可能性が色濃くなってくる。

 知られるように政重の数奇な後半生は秀忠の乳母の子岡部荘八を殺害し逐電したことから始まったわけであるが、「主君家康との出来レースであった可能性が高い」という予測が可能性として濃厚ということはすでに述べた。では、親の佐渡守正信はとみると、やはり、家康との出来レースで松平氏を称した時代の徳川家を見捨てて逐電し、残された妻は子をもうけて、なおかつ帰り新参となって帰参した夫を迎えている。生まれた子(政重)は不義の子ではなく紛れもなく正信の子なのである。

 当時、弥八郎と称した正信が逐電した動機は三河一向一揆である。三河一向一揆の原因は説が分かれるが、どちらでも関係ない。家康は一揆の鎮圧に手を焼いたが、歯向かった家臣ことごとくに帰参を許し、本多弥八郎(正信)を除いてほとんど全員が応じて復帰した。

 本多弥八郎も帰参を許されたのだからそのつもりなら復帰できたのだが、逐電して越前加賀の一向一揆に加担して転戦した。三河の松平家にとっては逆臣である。それにもかかわらず、本多弥八郎の妻は大久保忠世に庇護されており、長男千穂(正純)と次男の長次郎(政重)を産んでいる。三河一向一揆は永禄六(一五六三)年から七年にかけて続いて、七年中に本多弥八郎は逐電したというのに、千穂の誕生は永禄八(一五六五)年、長次郎の誕生は天正八年なのである。千穂の場合は弥八郎が逐電したとき妻が身ごもっていた可能性が否定できないが、長次郎は弥八郎が本能寺事変を事前に察知したうえで伊賀越えを成功させて帰参した天正十年より二年ほど前だから、逐電中、大久保忠世に匿われている妻と子のところに立ち寄ったのであろう。一発必中ということもあり得ないことではないが、頻繁に出入りして房事に励んだ可能性が高い。

秀忠の乳母の子岡部荘八を殺害し逐電した政重は、加えて西軍の大将宇喜多秀家の帷幄として奮戦しておりながら、訴追を受けた形跡がない。親子して酷似したパターンを取るとなると偶然では片づけられなくなってくる。

さて。

三河一揆後の弥八郎の逐電は、家康が一向宗(浄土真宗本願寺派)の存続を約束しながら僧侶を追放してしまい、禁教したことに抗議したとも受け取れそうだが、家康は江戸時代に入って浄土真宗を復活させ、本願寺を創建させているから、結果が目的だとすると、家康の一向宗潰しは見せかけだったことになる。

 もう少し詳しく述べると、弥八郎が帰依していたのは西三河の一向宗本證寺だった。一揆当時の住職は蓮如の十男実賢の孫で、すなわち蓮如には曾孫に当たる空誓であった。だが、一揆の直前までは蓮如の血を引いていない玄海が住職で、その玄海がなぜか加賀国の一向一揆に加担して戦死を遂げている。そのために、空誓が跡釜に収まったのである。その空誓も永禄七年にになって家康に追放されて消息が不明である。

 ここらあたりの経緯に何かありそうである。と、いうのは、当時、一向宗の西三河布教拠点の三ヵ寺のうち蓮如の血を引く住職がいなかったのは弥八郎が檀家の本證寺だけであった。蓮如の子のみが布教の主要拠点たる寺の住職を独占する教団で、その血筋の名が歴代住職にないままでは三河三ヵ寺に数えられる大寺院としては非常に肩身が狭い。空誓が玄海の跡釜に収まったのは、玄海の強い要望があったためで、本證寺住職としての要望すなわち貴種の空席を埋めるのが目的で、そのために玄海が場違いの加賀一向一揆に加勢したのだとしたら、「結果が目的のパターン」には矛盾しない。なぜなら、法主証如の後見人であって、とかく悪い評判の多い蓮淳(蓮如の六男)の専横に叛旗を翻して起った実賢の孫が空誓だったから、長いこと教団から破門、追放の身であった。したがって、空誓にそのつもりがあっても教団が認めるわけがないし、玄海も望むはずのないことであった。それがなぜ永禄五年になって急に空誓招請を目的として玄海が奔走するに至ったのかというと、蓮淳が臨終の近いことを知って空誓を赦免したからである。

 空誓の祖父実賢を法主に立てて蓮淳に退陣を求めて始まった教団内の騒動を河内擾乱と呼ぶのだが、それから後、大小一揆と呼ばれる武門を巻き込む内輪揉めが勃発した。蓮淳側が大一揆、対抗する加賀三ヵ寺側が小一揆と呼ばれ、大一揆側が勝利して、小一揆側の蓮綱(蓮如の三男)、蓮誓(蓮如の四男)、蓮悟(蓮如の七男)、実悟(蓮如の十男)らが破門と追放に処された。加賀三ヵ寺のうち松岡寺の蓮綱は子の蓮慶、孫の実慶と一緒に捕えられ、幽閉されて病死、蓮慶・実慶父子は逃亡して再びつかまり、自害したとも処刑されたともいわれている。光教寺の蓮誓は子の顕誓とともに破門、追放されたが、顕誓は実悟とともに許されている。破門中の実悟は本泉寺の蓮悟に連座して、一緒に能登国に潜伏していた。

このうち本泉寺は蓮乗(母親は第一夫人)が住職だったが、子がないため異母弟(母親は第二夫人)の蓮悟を養子に迎え、蓮悟もまた始め子がなかったため異母弟(母親は第五夫人)の実悟を養子に取った。一向宗布教の拠点となる寺には必ず蓮如の子を養子に入れて他人の血を受けつけなかったのだから、西三河三ヵ寺の一翼を担い、本多弥八郎が檀家の本證寺がまだ貴種を迎えていない現状が、一向宗布教の根拠地となっていた中核寺の中でいかに特異で例外的な存在であったかよく理解できると思う。

本證寺は内堀と外堀を持ち、郭に相当する鐘楼を備えるなど、城郭としての機能を持つばかりか、寺内町には三河木綿などの物産を取り扱う問屋が集まり、専用の港湾施設まで整っていた。他の二ヵ寺に見劣りするどころか、大規模で、最も栄えていたといってもよいくらいだった。

以上、本證寺を語るのに加賀の本泉寺と比較したのは、両寺がほかにもっと重大な関連性を秘めているためである。

さて。

 空誓の祖母はすなわち実悟の母蓮能である。蓮能は能登国羽咋郡を支配した畠山政栄の双子の子のうちの姉で、もう一人は弟、すなわち能登国西谷内城主の畠山家俊である。のちに大小一揆のとき越前一乗谷の猛将朝倉宗滴とともに小一揆側に加勢して、戦死を遂げた。蓮能はといえば四番目の妻に先立たれた蓮如に五番目の妻として迎えられ、実賢(蓮如九男)、実悟(同十男)、実順(同十一男)、実孝(同十二男)、実従(同十三男)と五人もの男子をもうけた。

永正三(一五〇六)年のこと、時の管嶺細川政元の要請を受けて教団の法主実如とその後見蓮淳が河内国の領主で蓮能の身内でもある畠山義英討伐を容認したため、摂津・河内の門徒が石山御坊に実賢を擁立、法主交代を求めて「河内の錯乱」と呼ばれる騒動を起こした。そのとき十七歳だった実賢は蓮淳に追放された。

当時、実悟は本泉寺の住職蓮悟に子がなかったため養子に入り住職を継ぐことになっていたため、兄の実賢に連座するのを免れたのだが、やがて蓮悟に実子が生まれたため末寺に追い出されてしまった。

大小一揆が起きたのはそれからずっとのちの享禄四(一五三一)年のこと。今度は蓮淳と加賀三ヵ寺の争いである。河内擾乱のときは加賀国本泉寺に養子に入っていて連座を免れた実悟だったが、今度はまんまと巻き添えを喰ってしまった。空誓の祖父実賢の死はそれに先立つ大永三(一五二三)年で享年三十三歳、そのとき実悟は三十一。孫の空誓はいくつだったか不明だが、孫と判明しているのだから幼かったに違いない。実賢の死を看取ったときはまだ教団から訴追を受けていなかった実悟ではあるが、養父蓮悟に疎まれて本泉寺住職を継ぐ望みがなくなっていたから、蓮能系の復活・再興を本気で考え始めた頃である。実悟の不遇に追い討ちをかけるように、八年後、大小一揆が起きて養父の側杖を食って破門の身となってしまう。もはや、蓮能系の復活・再興があるとすれば教団の癌ともいうべき蓮淳の死を待つほかなかった。だとしたら、より実現性を高めるためにもおそらく最小でも三十歳は下であるはずの空誓と二世代かけて夢の実現を期したほうが確実である。

しからば、教団から訴追を受けて能登の母方の縁辺に潜伏している実悟が、なぜ、遥か遠方の西三河本證寺に目を向けたのだろうか。

結果が目的のパターンを説明に持ち出すまでもなく、これまでの説明で答えは語られたと思う。すなわち血縁、地縁とも最も強く関連を持つ実悟と空誓であったとすれば、蓮淳の死後を見越して早くから本證寺に接近を図って当然である。したがって、幼い空誓が大叔父を差し置いて西三河の本證寺と接触するはずがないから、実悟が空誓に先んじて本證寺に関係していなければならない。

 だが、蓮淳の死は天文十九(一五五〇)年九月二十八日である。本證寺の住職玄海の戦死は永禄五(一五六三)年であり、空誓が後継するまで十三年もの間がある。実悟が晴れて自由の身となってから風聞や又聞きで本證寺を知ったとすると、玄海が加賀一向一揆に参戦して戦死するほどのつながりに説明がつかなくなってしまう。何のつながりもなく西三河の一向宗大寺院本證寺の住職ともあろう玄海が加賀国に遠征して戦死などと、まるで説明のしようがない。加賀国といえば実悟、しかも破門が解かれたとなれば、自分はもとより空誓のためにもおとなしくしていたほうがためになるはず。だから、実悟と空誓と玄海の接点は蓮淳がまだ健在で、必死に活路を見出そうとして情報網を駆使していたときでなければならない。

 山崎本願寺を本山として河内国、摂津国の畿内地方、越前国、加賀国を中心とする北国地域、三河国、尾張国を中心とする地域の一向宗寺院を調べあげるにはかなりの情報収集能力を必要とするから、実悟が本證寺をピンポイントに炙り出したということは、彼はそれだけの情報組織をつくったのである。

 ここまで説明すれば、一足飛びに実悟が育てた情報網と本多弥八郎を結びつけても異論を差し挟まれることはないと思う。逐電中の弥八郎は実悟から委ねられた情報網を使って探索をつづけ、大久保忠世を通じて家康に上げていたと考えると、千穂と長次郎の誕生に合理的に説明がつく。戦国武士が逐電中に房事のためだけに旧主家の領内に立ち入るなどの不謹慎な行為は、説明するこちらとしても願い下げにしたいものである。

 実はこの実悟の情報網という仮説にたどりついたことで、これまで本多弥八郎による本能寺事変の事前予知の情報源を大徳寺人脈と目星をつけてきた自説の解釈に厚みが加わり、豊臣家と徳川家のつながりが桶狭間合戦直前で、「本多弥八郎と仲、小一郎の三者連携による天下を取り、治めるための義盟」という暫定仮説を掘り起こすまでに立ち至った。目下は小説種の域を出ないわけであるが、まだまだ戦国史には未知の空白域が壮大に広がっていることは確かめられた。

 一向宗の実悟の存在も、仮説として浮上した実悟の情報ネットワークも、戦国史愛好者には寝耳に水かもしれない。これを掘り起こしたのは、現在執筆中の『春秋小田原記』のうち秀吉による「宗二惨殺」事件の背景を考証していてのことだから、そのスケールの大きさをご想像いただけると思う。ただし、ここは本多弥八郎・政重父子に関することを述べる場なので、論旨をそのあたりまで広げるのは後日のこととしたい 
(つづく)




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