第二のキーマン大谷吉継のジレンマ


 時系列を完全に無視して慶長五年七月二日の時点に後戻りすると、このとき中仙道垂井宿にやってきた大谷刑部吉継について今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)は次のようにいう。

《挙兵の機会は北国征伐の沙汰止みで一旦去ったかと思われたが、やがて再び絶好の機会がめぐってきた。家康の会津征伐の報を得た三成は、勇躍して喜んだ。しかし三成は表面いかにも家康に恭順に振舞い、その臣隅東権六を家康のもとに遣わし、この子重家を大谷吉継に託して、会津征伐に従軍せしめんことを請うた》

 大谷吉継に託すということは吉継が会津討伐軍に参加することを三成が事前に把握していたことを意味する。今井林太郎著『石田三成』はさらにいう。

《大谷吉継は当初家康に従って会津征伐に赴くため、敦賀をたって七月二日美濃の垂井に到着し、かねての約束に従って三成の子重家を同道するため、迎えの使者を佐和山に遣わした。吉継が垂井にきたことを知った三成は、その臣樫原彦右衛門を吉継のもとに派遣して、吉継を佐和山城に迎え、家康討伐の計画を告げて協力を求めた。吉継は当時らいを病んで身体も自由ではなく、眼も殆ど失明していたが、彼は会津従軍に当り、場合によっては家康と景勝の間を調停したいとさえ考えていた》

 蛇足ながら記事中「当時らいを病んで身体も自由ではなく、眼も殆ど失明していた」はハンセン病(らい)に対する誤解がある。ハンセン病は伝染しないし、症状もそれほど重くない。吉継が患ったのは別の病気というのが現在の認識である。

 それはさておき。

 留意すべきことは吉継がすでに失明して身体が不自由だった事実であり、垂井到着がだれの都合で七月二日と遅い時期になったのかということである。手勢一千余を率いていたから、当然、だれが見ても戦闘に参加するのに恥ずかしくない支度をしてきたわけで、行軍の予定も家康に届けたうえでのことだろう。しかし、七月二日といえばゆっくり下った家康でさえ江戸に到着していた。吉継にしてはあまりの怠慢ぶりであり、識見尺度に照らして自己理由ということはあり得ない。三成の一方的な都合で七月二日垂井到着になったとみなすほかない。吉継と三成のその間におけるやり取りの記録がないので内容はつまびらかではないが、重家を同道する旨は家康に通じていることだから、三成が重家を寄越さないかぎり出発しても意味がない。じりじりしながら待たされてとうとう七月二日になってしまったということではなかったか。ところが、垂井宿で待ち受ける約束の重家がいない。だから、重家を同道するために迎えの使者を佐和山に遣わしたのである。

これでは予定は遅れるばかりだ。いかに天下の街道といえども一千もの軍勢が往来勝手というわけにはいかない。予定した行程に遅れるからには途中の関門に相応の理由を告げなければならない。吉継の心中は穏やかではなかったはずである。

 ここから先は「吉継と三成の友情」といった根拠のないバイアスを排除するため時系列に従って事実のみ列挙することにしよう。

一、吉継が三成に求めたのは重家を引き渡してほしいということである。

一、三成から家康討伐という意中の計画を打ち明けられると、吉継はその無謀を説いて翻意するよう諌めた。

一、三成は聞く耳を持たず吉継を引き止めて一方的に説いた。

一、そのため吉継の佐和山城滞在数日に及び、重家を同道することもできないで、むなしく垂井へ引返した。すでに七月七日だった。

一、吉継は平塚為広を佐和山城へ派遣した。

一、為広が戻った。

一、吉継は引き続き垂井に滞在し七月十一日に至って、再度、一千の軍勢を率いて佐和山城へ赴いた。

 すなわち、佐和山城における大谷・石田会談のテーマを観点にしていうと、吉継の主張は重家を会津討伐に同道することであり、三成の場合は挙兵への協力要請だから噛み合うはずがなかった。

「約束が違う、渡せ」

「協力すると約束したら同道させる」

「協力するなら同道する必要はなくなる。あまりにも勝手ないいぐさではないか。貴殿は、それでも武士か」

 交渉のカードは三成が握っているのだから吉継はどうすることもできない。だから、仕方なく挙兵の無謀を説いて重家を同道させるのが身のためだと説得に努めたのである。しかし、吉継の説得に耳を傾けるような三成ではなく、吉継が交渉を断念して佐和山から垂井に引返したときすでに七月七日になっていた。

重ね重ねの遅延である。

三成が重家を引き渡さなかったことを遅延の口実にできないことはないが、それではあまりに子どもの使いのようであり、会津討伐への参戦という観点からいえば埋め合わせのつかない失態であった。

 吉継は三成の不実に内心憤りながら、ふと考えた。

 治部少の挙兵に反対することが、果たして内府殿の意に沿うかどうか 
(つづく)


《訂正とお詫び》

先週の記事で本多政重の通称を長次郎と記しましたが、「長五郎」の誤りですので、お詫びして訂正します。




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