答えは「ノー」である。家康が望むのは人質などではないはずだ。そんなものは最初から望んでもいなかったに違いない。
吉継は今になってようやく気がついた。
われ、対応を過てり……。
行くもならず引き返すもならず進退窮まったために、かえって吉継はかくあるべしの対応に気づいたのである。平塚為広を佐和山城に遣るとしたら、こうしたパターンしかあり得ない。無駄骨と知りながら、なお、断念しがたい思いから、平塚為広を佐和山城に派遣して重家を引渡すよう交渉させるという見方もないではないが、それではあまりに未練がすぎるし、またしても平塚為広に子どもの使いをやらせてしまう。平塚為広ほどの者を使者に立てるからには協力を約束するということ、吉継が一千の軍勢を率いて佐和山城下に行くのを事前に告知するのでないと見識尺度にも外れてしまう。
以上が見識尺度に照らした場合の七月二日から八日頃までの吉継と三成の交渉経過であって、友情などまるで無縁の内容であり、三成の不実を絵に描いたような交渉の光景である。恐らくこれが真相であろう。それなのに今井林太郎著『石田三成』はいう。
《吉継は佐和山に逗留すること数日、熟慮を重ねたが、なお判断を決することができず、七日佐和山を去って垂井に赴いた。そこから彼はさらに家臣平塚為広を遣わして再び三成に忠告した。しかし三成を翻意させることが到底できないと知った彼は、この旧友を捨てて東に下ることは、友情の上で忍び難いものがあった。吉継は思い悩んだ末、遂に意を決し、三成と行動をともにする肚をきめ、十一日再び佐和山城にとってかえした》
用心して読むと解釈がまるで説明になっていないことに気づく。吉継ほどの者が自分が説いてもいうことを聞かなかった相手を平塚為広に説かせるはずがない。人物の器にふさわしい理由を考えてあげないと歴史上の人物が気の毒である。あるいは「旧友を捨てて東に下ることは、友情の上で忍び難い」は出任せもいいところで、「重家を同道しなければ東に下れない」が本当の理由である。大恩ある内府殿の期待に背くからには土産代わりに、内府殿がこころ待ちしているであろう「三成挙兵」を会津征伐不参の詫びの引き出物としよう、というほうが吉継の人物の器にふさわしい。
関ヶ原に関するすべての史書が三成の家康に対する「重家を吉継に同道させる」という約束、吉継の家康に対する「重家を同道する」という義務をまったく問題にしていないのは奇怪というほかない。バイアスとはかくも恐ろしいものなのである。
もう一度繰り返していうと、吉継が佐和山に逗留すること数日に及んだのは熟慮したためなどではない。三成が重家の同道を拒んだからなのである。三成がのらりくらり言を左右にして重家を引き渡そうとしないから吉継は東下するタイミングを逸して、なおかつどうすることが家康の意に適うか本当の答えに気づいたのである。
そもそも三成の人となりはどのようなものであったか。『北川遺書記』は「三成はその初志を必ず貫徹せざれば止まざるの士にして、容易に人に聴かず、みずから信ずることすこぶる厚し」といい、高野山の木食上人の三成評として「治少御奉行のその随一なるがほにて候つる、少しも背きそうらえばたちまち身の障りを為す仁にてそうろう」と述べる。
三成は太閤という虎の威を借る狐であり、「少しでも逆らおうものなら仕返しは身の破滅につながるほど」というキャラクターであった。奉行畑で長く机を並べたのだから吉継自身も三成の人となりを熟知していたであろうし、だからこそ後述のような苦言を呈するわけである。角度を変えれば三成に挙兵を翻意させるのが目的なら説くだけ無駄なのだから平塚為広に説かせるはずがないともいえる。重家を寄越せと掛け合っても無駄だということも吉継自身がわかっていた。どう試みても無駄と見切ったから垂井へ戻ったのである。
吉継が垂井滞在の三日か四日をかけて下した結論が西軍への加担であることに変わりはないが、断じて友情などのためではないし、三成が旧友であるためではない。自分の勝手都合次第で約束をいとも簡単に反故にし、相手がどんなに困ろうと自分の主張を押し通し、ちょっとでも反対しようものなら身の破滅になりかねない目に遭わせる人間、すなわち太閤という虎の威を借る狐ともいうべき男を、現代人のわれわれの立場で考えたとしても友達と呼び友情を覚えたりするだろうか。今は太閤なく引退して「虎の威を借る狐」ではなくなった男、それが三成なのである。『落穂集』は大谷吉継の親族からの聞き書きとして三成にした意見の内容を次のように伝える。
「諸大名はもとより末輩にいたるまでみんながそのもとのことを日頃の辞儀作法ともども横柄(へいかい)といっているのは理由のないことではない。内府殿は家柄もよく、官位も高く、二人といない実力者であるにもかかわらず、諸大名に対してはもとより、軽輩・小者にも愛想よく慇懃なためで、世間の評判がよい。およそ人の上に立って事を行うからには下々の者にまで心服されるようでなくてはかなわない。貴殿や拙者などはまったくの小者であったが、太閤殿下のお取立てに与かって立身したにすぎない。だから、うわべは尊敬しているように見せても、本心は違う。そこをよくわきまえ、こたびの大事も毛利輝元・宇喜多秀家の両人を上に立て、下について取り計らうようにしなければうまくいくはずがない。そのもとは才智ではほかに並ぶ者がないほどであるが、勇気の面では見劣りがする」
西軍への寝返りを決意したうえでいったことだから、本気で西軍のためを思っていったのである。もちろん、吉継の会津討伐軍から西軍への寝返りは本意ではない。吉継があえて意に反して西軍に加担すると決断するからには意思決定の要素があったはずである。
