加賀征伐宣言のとき、三成は家康の術中に嵌まっていた


 直江状については別の角度から思いもよらない評価の仕方がある。直江状の真贋を問題にする前に、直江状そのものを「複雑に入り組んだ事情をわかりやすくデフォルメした仮説」と理解して、背景を推し量るとどういうことになるだろうか。

 ここで閑話休題。

 シロウトが絵を鑑賞する場合、最初はかぎりなく写真に近い具象画がよく見えてしまう。しかし、絵を見慣れてくるにつれて具象画では物足らなくなり、究極、ピカソの絵のようなデフォルメの極致ともいうべき抽象画により魅力を感じるようになっていく。ここで大事なところは、具象がデフォルメされた抽象を絵にしたという点である。ピカソは具象画から出発して抽象画に到達したから、デフォルメが正確でわかりやすい。ところが、最初から抽象画にアプローチした絵は具象がデフォルメがされていないから色と形しかない。それがちんぷんかんぷんの印象につながって何が何だかわからないから評価のしようがなくなってしまう。

 以上のようなことわりを日本史の考証に当て嵌めたら、説明が煩雑になる出来事の描写に応用できるのではないだろうか。仮に直江状がデッチあげられたものであったとしても、そのゆえをもって偽物として捨て去るのではなく、抽象画的な扱いをして、そこからデフォルメされた具象を「還元」という操作をして引き出すのである。

 それはさておき。

今井林太郎著『石田三成』のいう《三成の家康を憎む心はますます募り、佐和山引退後も家康の動静には常に注意し、家康を討つべき機会を虎視眈々として窺っていた。それ故慶長四年十月家康が前田利長を討つため、北国征伐を企てていることを知るや、事を起さんと計った》を三成晩年の行動パターンとみなすと、会津征伐は次のようにならざるを得ない。

《三成の家康を憎む心はますます募り、佐和山引退後も家康の動静には常に注意し、家康を討つべき機会を虎視眈々として窺っていた。それ故慶長五年六月家康が上杉景勝を討つため、会津征伐を企てていることを知るや、事を起さんと計った》

ここで、一つの試問を呈したい。北国征伐が実現したら、会津征伐はどうなっていたか、というのが出題問題である。質問の事実はなかったことだから、もちろん、正解となる答案はない。しかし、その意味するところを知っておくことは重要である。なぜなら、実現しなかった加賀前田八十万石、実現した会津百二十万石の両家と深く関わることになったのが本多政重だからである。

考えられる範囲で最善の答えは前者が不発に帰したため、急遽、後者が画策されたということ。すなわち、前者のパターンでは前田まつがみずから人質を受け入れる英断を下し、家康がそれに応じ、北国征伐が沙汰止みとなったため、三成の挙兵は未発に終ったのだが、後者(会津征伐)のパターンでは征伐が沙汰止みにならず、実現したため、ようやくにして三成が挙兵するに立ち至ったというものである。

 加賀前田家の柱石たるまつ本人による人質応諾は家康の大きな誤算だった。否、予想したとしても、家中一人として賛成する者などおりはしないだろうし、主君利長はもとより、何よりも本人が受け容れないだろうから実現性なしと考えるのが、当時、だれしもが思うことであった。それなのに、まつはものの見事に家康の期待を裏切り、大方の観測を覆した。

 まつは国許からきた使者の横山長知に諭していう。

「即刻、国許に立ち帰り、利長殿に伝えよ。侍は家を立つることが第一、わたしは年も取っているし、覚悟もできている。この母を思うがために家を潰すようなことがあってはならぬ。つまるところ、われらをば捨てよと」

 見事というほかない覚悟であり、女丈夫まつの面目躍如たるコメントである。

 しかし、それで一件落着というわけにはいかなかった。問題は挙兵のチャンスを求めてうずうずしている三成の処遇である。釣りになぞらえれば、いわば「アタリがびんびんある状態」「入れ食いの状態」である。餌のない針では、いかに食いつきたい三成とはいえ振り向きもしないだろう。不発の北国征伐を受けて家康が矢継ぎ早に会津征伐を試みたということは、同時に試みるような性質のことではないから、北国征伐が実現したら会津征伐はなかった可能性が高いことを示唆する。そして、そのいずれにも本多政重が深く関わっていく事実が、その推測の根拠である。あるいはまた、それこそが本多政重と直江兼続の養子縁組に関係する折衝の派生を会津征伐直前とする所以であり、大谷吉継家、加賀前田家、備前岡山宇喜多家と政重の行く先がめまぐるしく変わった理由である。

 さて。

 こうしてみると、直江状なるものが挑発的で激烈な文言から成り立っているとしても、それは不思議でも何でもないであろう。仮に書状が贋作であったとしても、「こんどこそ」という家康の意気込みに対応するものだから、家康が激怒したとしてもそれはパフォーマンスにすぎない。すでにこの段階で三成は家康の術中に嵌まってしまったことを意味するわけである。

 以上が直江状から炙り出されてくる「デフォルメされた仮説事実」である。もう一つ、本多政重と直江兼続の養子縁組の目的とその時期もまた炙り出されてきた。直江状を書いたのが直江兼続であった背景には、政重や本多佐渡、家康の姿がちらついて見えることも付け加えておこう。こうした「デフォルメされた仮説事実」を発掘する手法が確立されたら、日本史の考証精度は格段にアップするのは間違いない 
(つづく)




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