戦国武将 徳川家康の歩み(29) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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ソフトブレインのシニアAです音譜
だいぶ期間が空いてしまいましたが、
今日は、秀吉が北条氏を攻め滅ぼし、奥羽仕置も行なって天下統一を果たした出来事がメインです。

それではお楽しみ下さい(^o^)/



【小田原攻め】
天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、秀吉は自分の後継者に指名した。秀吉天正18年(1590年)に20万の大軍で関東へ遠征、北条氏の本拠小田原城を包囲し、北条氏の出城を次々と攻略していった。

秀吉は、延べ4万人を動員し4月から6月までの80日間で石垣山に城を作った。その城の周囲の樹木を一夜にして伐採すると、まるで一晩にして城が現れ、北条軍の士気を失わせている。この数日後、北条氏政北条氏直父子は降伏した。北条氏政北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。

秀吉北条氏征伐に小田原に出陣している間に、伊達政宗最上義光などの奥羽の大名も小田原に参陣し、奥羽平定も大きく前進した。小田原開城後に秀吉は、小田原に参陣しなかった領主は改易(かいえき、家禄を没収する)とし、小田原に参陣した領主は所領を安堵した。命令を無視して蘆名(あしな)氏を攻めた伊達政宗には減封(げんぽう、一部の所領を召し上げ)の処分が下された。

天正19年(1591年)秀吉の弟の豊臣秀長と、後継者に指名していた鶴松が、相次いで病死した。そのため、秀吉は、甥である秀次に家督を相続するとして養子にして関白職を譲り、太閤と呼ばれるようになった。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り続けた。

天正19年(1591年)7月豊臣秀吉が天下統一の最終段階として実施した東北地方の領土処置が「奥州仕置」である。当時の東北地方は陸奥国(むつのくに、現在の福島・宮城・岩手・青森県)と出羽国(でわのくに、現在の山形・秋田県)から構成されていたことから「奥羽」と呼ばれており、このため別名「奥羽仕置」とも言われている。秀吉の独断で領土配分を実施したことで、領土を没収された武将が絡んだ大掛かりな一揆がいくつも勃発した。

天正19年(1591年)6月20日秀吉は、奥州での一揆鎮圧のため号令をかけ、秀吉の甥の豊臣秀次を総大将とした奥州仕置軍を編成した。家康秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)、和賀・稗貫一揆(わが・ひえぬきいっき)、仙北一揆(せんぼくいっき)、藤島一揆(ふじしまいっき)、九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)などの鎮圧を行なった。


【文禄の役】
天正19年(1591年)秀吉は、将来の朝鮮出兵に際して、肥前国(ひぜんのくに)に名護屋城を数カ月で築城させた。

天正20年(1592年)4月13日、日本の天下統一を果たした天下人・豊臣秀吉は、明の冊封国(さくほうこく、中国王朝の従属国)である朝鮮に服属を強要したが、拒まれてしまった。そこで大明帝国の征服を目指し、西国の諸大名(小西行長加藤清正黒田長政毛利吉成島津義弘小早川隆景など)で遠征軍を立ち上げ、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。これは文禄の役(ぶんろくのえき)という。

このとき、家康も指揮下の東国大名(伊達政宗南部信直上杉景勝佐竹義宣など)と共に名護屋城に終結し、城には16万人ほどが集まったとされる。ただ家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけだった。

遠征した日本軍は優勢に進んでいたが、朝鮮国王は明の援軍を仰いだ。明が出兵すると、戦線は膠着(こうちゃく)し、天正20年(1592年)8月、日本と明の間で50日の休戦合意が結ばれた。


本日はここまでです本
次回の徳川家康の歩みをお楽しみにウインク