戦国武将 徳川家康の歩み(25) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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みなさん、こんにちはびっくりマーク

ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

 

今日は、家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦い(前半戦)ですカブト

 

それではお楽しみ下さい(^o^)/


【小牧・長久手の戦い(前半戦)】
天正11年(1583年)5月家康は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで勝った秀吉に、戦勝祝いとして天下三肩衝(てんかさんかたつき)と呼ばれた名高い茶器の一つ、初花(はつはな)を贈った。織田信長の次男である織田信雄(おだ のぶかつ)は、秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後秀吉との関係は険悪化し、家康に接近していく。

天正12年(1584年)3月6日織田信雄は、秀吉に調略された津川義冬岡田重孝浅井長時の3人の家老(かろう、家臣の中で最高位な役職)を処刑した。これに激怒した秀吉は、織田信雄に対し出兵を決断した。

天正12年(1584年)3月13日家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与するはずの池田恒興(いけだ つねおき)が突如、秀吉に寝返り、犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には、三河国(みかわのくに)の小牧山城に駆けつけた。

天正12年(1584年)3月15日池田恒興と協同せんとする森長可(もり ながよし)は兼山城(かねやまじょう)を出て、16日羽黒(はぐろ)に池田勢より突出したかたちで着陣した。しかし、この動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣する。

天正12年(1584年)3月17日早朝酒井勢森勢を奇襲。酒井勢の先鋒、奥平勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し、さらに酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走した。森勢の死者300余人だった。(羽黒の戦い)

天正12年(1584年)3月18日家康は、敵襲の心配がなくなったため、小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。

天正12年(1584年)3月21日秀吉は、軍勢30,000兵を率いて大坂城を出発し、25日に岐阜、27日に三河国の犬山に着陣した。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥った。

天正12年(1584年)4月4日池田恒興は、秀吉のもとを訪れて、兵を三河に出して留守を襲い各所に放火すれば徳川は小牧を守ることができなくなると、献策した。6日秀吉はついに許可し、羽柴秀次(はしば ひでつぐ、秀吉の甥)9,000兵、池田恒興5,000兵、森長可3,000兵、堀秀政3,000兵の陣容だった。

天正12年(1584年)4月6日羽柴軍の別働隊は、夜半に出発した。


本日はここまでです鉛筆

 

家康が秀吉に一目も二目も置かれた戦いですねカブト

数では負けていても、戦略では負けていませんでしたびっくりマーク

 

次回の徳川家康の歩みをお楽しみにウインク