戦国武将 徳川家康の歩み(23) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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みなさん、こんにちはびっくりマーク

ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

今日は本能寺の変のあと、どうなったかですひらめき電球

 

それではお楽しみ下さい(^o^)/



天正10年6月2日徳川家康は、信長の提案を受けて堺見物している最中に、京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は少人数であったため極めて危険な状態であった。落ち武者狩りから逃れながら、伊賀国(いがのくに)の険しい山道を越え、加太越(かぶとごえ、現在の鈴鹿峠)を経て伊勢国(いせのくに)まで徒歩でいき、そこから海路で三河国(みかわのくに)に辛うじて戻った。(神君伊賀越え)

帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしたが、途中で秀吉光秀を討った知らせを受けると、三河国に引き返した。

6月6日家康は駿河衆・岡部正綱に書状を送り、畿内脱出の途中で死去した穴山梅雪の本拠である甲斐河内領に城普請を命じた。後に菅沼城(すがぬまじょう)が築城された。

6月10日頃家康は、織田氏の家臣として甲斐一国と信濃諏訪郡を統治していた河尻秀隆(かわじり ひでたか)のもとへ本多信俊を派遣し、河尻に協力の要請を行った。数日後、河尻秀隆本多信俊を殺害した。これは河尻秀隆本多信俊に不審感を抱き、家康が一揆を扇動し、甲斐を簒奪する意図があったと疑っていたらしい。

6月15日に甲斐国の人衆が一揆を起こし、河尻は脱出を図ったが、18日に一揆勢に殺害された。織田氏の領地である信濃国(しなののくに)でも多くの一揆が起こっていった。

上野国(こうずけのくに)・甲斐国(かいのくに)・信濃国(しなののくに)の3か国を統治していた織田氏家臣のうち、河尻が死亡し、滝川一益森長可が敗走したことを確認した家康は、明智光秀を討った羽柴秀吉と連絡し、上野国・甲斐国・信濃国を家康が確保することに同意した書状を受け取る。



こんな状況の中、北条氏直は、織田氏との同盟を破り、4万3,000兵の軍勢で上野国に侵攻した。北条軍は、信濃国・上野国を治めていた滝川一益の守備軍と相まみえた。初戦では北条軍の先鋒が敗退したが、翌日の神流川の戦いで北条軍が勝利した。そして敗走する滝川一益を追って上野国から信濃国に侵攻していく。

家康武田氏の遺臣・岡部正綱(おかべ まさつな)や依田信蕃(よだ のぶしげ)、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000兵の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。

北条軍は、上杉軍と川中島で対峙した後に、和睦し、南へ進軍した。家康は甲府から若神子城(わかみこじょう)に本陣を移し、北条軍と対峙した。ここに徳川軍北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて、滝川軍配下から北条軍に転身していた真田昌幸徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条氏直は、徳川家康に和睦を求めた。

和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐国・信濃国・駿河国・遠江国・三河国の5か国を領有する大大名へとのし上がった。


本日はここまでです鉛筆
 

5大国の大名となった家康の軍勢は、今後格段に増えていくでしょうねびっくりマーク

楽しみです音譜


次回をお楽しみにクローバー