戦国武将 徳川家康の歩み(21) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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みなさん、こんにちは!

ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

今日は「本能寺の変」ですカブト

前日の6月1日から始めますひらめき電球

 

それではお楽しみ下さい(^o^)/

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【本能寺の変(3)】
天正10年6月1日明智光秀は、1万3,000人の手勢を率いて、居城である丹波亀山城を出陣した。東の柴野に集結したのは、酉の刻(午後6時)のことであった。

光秀は、そこから1町半(約160m)ほど離れた場所に、明智五宿老(明智秀満明智光忠斎藤利三藤田行政溝尾茂朝)を集め、ここで初めて謀反のことを告げた。光秀と重臣達は、それから如何にして信長を討ち果し、如何にして天下の主となるべきかを話し合った。

京の西の方角に位置する亀山から西国への道は、南の三草山(みくさやま)を越えて西へ向かうのが普通である。しかし光秀は、「老ノ坂峠(おいのさかとうげ)を越え、沓掛(くつかけ)を通って進軍する」と兵に告げた。このルートは明智越えと呼ばれ、夜道を東に向かって進んだ。沓掛で休息して兵糧を使い、馬を休ませたあと、さらに京へ向かって東へ進軍していく。

6月2日未明、京を流れる桂川に到達すると、光秀は、京に攻め入ることを全軍に知らしめ、戦闘準備を指示した。軍勢のほとんどは、家康が上洛していたので、信長の内命により、親類たる三河の君主(徳川家康)を掩殺(えんさつ、暗殺のこと)するのではないかと疑惑を持った。しかし光秀は、「敵は四条本能寺、及び二条城にあり」と言ったので、皆は光秀が謀反をすることを理解した。

軍勢が桂川を越えたあたりで夜が明けた。先鋒の斎藤利三は、市中に入ると、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にしてそれぞれの部隊で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した。

6月2日曙(午前4時ごろ)明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。軍勢が複数の門から突入していく。

信長や小姓衆は、この喧噪(けんそう)は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると、鬨の声が聞こえたり、鉄砲の音が聞こえたりしてきた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか」と森蘭丸(もり らんまる)に尋ねて物見に行かせたところ、明智の水色桔梗の旗印が見えたため、「明智の軍勢と見受けまする」と報告した。信長は「是非に及ばず」と言い放った。つまり、光秀の謀叛ならば、光秀の性格や能力から見て、脱出は不可能であろうという意味だ。

明智勢が四方より攻め込んできたため、寺にいた全員が合流して一団となって応戦した。武士はどんなに苦戦でも死に立ち向かう勇気を持っている。信長は、初め弓を持って、危なくなった部下を助けながら戦った。弓の弦が切れると予備の弓を手に取り、応戦を続けていく。正室の濃姫も、信長とは少し離れた場所で薙刀(なぎなた)を振るっていた。信長の弓の弦がまた切れてしまい、予備の弓は無くなった。

このとき濃姫は、身体に熱いものを感じて地面に倒れ込んだ。起き上がれないことを知ると、生涯の夫であった信長を必死に目で追いかける。信長はさっそうと庭に飛び降りると、槍を取って応戦を始めた。数人の敵を突き伏せた次の瞬間、信長は、右の肘に槍傷を受けた。

すでに寺には火がかけられていて、近くまで火の手が及んでいた。濃姫をちらっと見た信長は、軽く頷き、蘭丸に「あとは任せたぞ」と声を掛け、殿中の奥へ歩き去っていった。濃姫は、信長を見送ったあと、あたりが暗くなり意識を失った。信長は、奥の部屋の内側から納戸(なんど)を締めて、いさぎよく自刃した。享年47歳だった。この討ち入りが終わったのは、辰の刻(午前8時前)であった。

また、後継者と認められていた織田信忠は本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると、本能寺へ救援に向かったが、信長自刃の知らせを受け、二条城に戻り、わずかな軍兵とともに篭城(ろうじょう)した。しかし、明智軍が攻め寄ると自らの遺骸を隠すように命じて自刃した。享年25歳だった。


本日はここまでですクローバー


濃姫が一緒で、親子3人が亡くなったと信じて描きました鉛筆

このとき信長が生き延びていたら、いまの世界はどうなっていたのでしょうね。


次回をお楽しみにウインク

 

 

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