戦国武将 徳川家康の歩み(20) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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みなさん、こんにちはクローバー
ソフトブレインのシニアAですビックリマーク


本能寺の変が起きたのは、天正10年6月2日未明です。

今日は、それまでの人の動向を描いています。それではお楽しみ下さい(^o^)/



【本能寺の変(2)】
天正10年3月5日(1582年)羽柴秀吉(はしば ひでよし、後の豊臣秀吉)は、織田信長の命により、山陽道(さんようどう、本州西部の南岸の街道、ちなみに山陰道は、本州西部の北岸の街道)に出陣した。

5月7日秀吉は、蛙ヶ鼻(かわずがはな)に陣を移し、足守川(あしもりがわ)を堰(せ)き止めて、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう、城主は清水宗治)を水没させた。

5月14日明智光秀は、織田信長からの指示により軍務を解かれ、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、金2,000枚を献じて所領安堵された穴山梅雪(あなやま ばいせつ、武田信玄の娘婿)一行を京・堺から珍物を取り寄せて饗応することになった。

5月15日秀吉は、毛利輝元(もうり てるもと、安芸国(あきのくに)の戦国大名)・小早川隆景(こばやかわ たかかげ、筑前国(ちくぜんのくに)の戦国大名)などの50,000兵の大軍が援軍として現れたと使いを送った。

5月17日信長は、備中高松城を包囲中の羽柴秀吉から急使を受け取り、光秀を援軍として派遣することにして、光秀とその与力衆に援軍の先陣を務めるように命じた。信長は、この時「自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と心に決めている。光秀は、饗応役を丹羽長秀(にわ ながひで)と交代し、急ぎ居城である近江国(おうみのくに)の坂本城に戻り、出陣の準備を始めた。

5月19日信長は、摠見寺(そうけんじ)で幸若太夫に幸若舞をまわせて、家康一行に披露した。

5月20日信長は、家康一行に京・大坂・奈良・堺をゆるりと見物するように勧めた。

5月21日家康は、梅雪ら一行と京に向けて出立し、長谷川秀一が案内役として同行した。信長の嫡男である織田信忠は、上洛して妙覚寺に滞在した。

5月26日光秀は、坂本城を発し、別の居城である丹波国(たんばのくに)の亀山城(かめやまじょう)に移った。

5月27日光秀は、亀山城の北にある愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、その日は参籠(さんろう、宿泊のこと)した。光秀は、思うところあってか、太郎坊の前でおみくじを引く。凶で「生死十に七八まで死すべし」だった。2回目のおみくじも凶で「生死十に八九まで死すべし」だった。3回目のおみくじは大吉だったが「生死は死すべし」だった。光秀は3回目が大吉だったのでこれでおみくじを引くのをやめた。

5月28日光秀は、威徳院西坊で連歌の会を催し、歌「時は今 天が下しる 五月かな」を詠んだ。「時」は光秀の系譜に連なる「土岐」氏を表し、「今こそ土岐の一族である自分が天下を支配する5月になった」とも取れる歌だった。

5月29日信長は、安土城を留守居衆に託すと、「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、京での定宿であった本能寺に入った。本能寺は、ただのお寺ではなく、延暦寺に焼き討ちされたことがあり、堀や土塁に囲まれ、まさに城みたいな防御性を誇っていた。

6月1日信長は、本能寺で茶会を開き、博多商人で茶人である島井宗室や、近衛前久(このえ さきひさ)などの公卿(くぎょう、貴族の上層の人)、僧侶など40名を招き、秘蔵の茶入・茶釜・茶碗や絵画などを披露し、茶事が終わると酒宴となった。夜半には二条城より信忠信長の嫡男で後継者)が来訪して、父子で久しぶりに酒を飲み交わした。信長は、深夜に信忠が帰ってしばらくした後、就寝した。


本日はここまでです鉛筆

明日6月2日未明が本能寺の変ですカブト
今日の場面では明智光秀の思いが垣間見えますビックリマーク

次回をお楽しみにウインク