戦国武将 徳川家康の歩み(19) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

    ✤ We Love Softbrain ✤ 

        日々の仕事や、プライベートな趣味まで掲載しています。

みなさん、こんにちは!

ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

今日は、「本能寺の変」に至るまでの出来事のうちの1つですひらめき電球

 

それではお楽しみ下さい(^o^)/


image
【本能寺の変(1)】
天正10年3月11日(1582年)織田信長は、武田勝頼(たけだ かつより、武田信玄の後継者)を天目山に追い詰めて自刃させた。

同年3月27日信長は、名高き高遠城を攻略した長男の織田信忠(おだ のぶただ)に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」との言葉も贈って褒め称えた。
信長は、遡(さかのぼ)ること天正4年信忠に家督を譲り、美濃東部と尾張国の一部の支配を任せ、信長の正室濃姫を養母として岐阜城主としている。

信長信忠を諏訪に残したあと、軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。

同年4月3日信長は、新府城の焼け跡を見物。かつての敵、武田信玄の居館(きょかん)だった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在した。

同年4月10日信長は、甲府を出立した。長年の宿敵であった信玄を倒し、立派な後継者の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。

天正10年(1582年)、家康が41歳になったころ、信長から長年の同盟者の労を祝って駿河一国が贈られた。これ対する返礼で、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待して、下士に至るまで手厚くもてなしたため、信長は大いに喜んだ。


このころ東を展望すると、東北地方においては、伊達輝宗(だて てるむね)・最上義光(もがみ よしみつ)・蘆名盛隆(あしな もりたか)]といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せていた。

 

関東地方では、北条氏政(ほうじょう うじまさ)がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて、佐竹義重(さたけ よししげ)とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を残すのみとなっていた。


西に目を転じると、中国地方では、毛利輝元(もうり てるもと)との争いが続き、四国でも長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が信長の指図を拒否したことから交戦状態に入ったが、九州においては大友宗麟(おおとも そうりん)と信長は友好関係にあり、島津義久(しまづ よしひさ)とも外交が持たれている。


全国平定の戦略が各地で着実に実を結びつつあったこの時期に、織田家の重臣に率いられた軍団は西国(羽柴秀吉20,000兵)・四国(神戸信孝14,000兵)・北陸(柴田勝家48,000兵)・関東(滝川一益26,000兵)に出払っており、畿内に残っていた明智光秀の立場は、遊撃軍(戦列外にあり、機をみて出動する部隊、13,000兵)となっていた。


近畿地方一円に政治的・軍事的基盤を持っていた光秀は、近江・丹波・山城に直属の家臣を抱え、さらに与力大名(長岡藤孝池田恒興高山右近中川清秀塩川長満など)を抱えていた。



本日はここまでです鉛筆


信長がもう一歩で全国平定するところでした。

「本能寺の変」がない歴史はちょっと怖い気もしますね。


次回をお楽しみにウインク