戦国武将 徳川家康の歩み(16) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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みなさん、こんにちはビックリマーク

ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

 

今日は、織田・徳川連合軍が、戦国最強と言われた武田軍を相手に戦った「長篠の戦い」の続編ですカブト

 

それではお楽しみ下さい(^o^)/



【長篠の戦い(2)】
天正3年(1575年)家康が34歳になったころ、武田信玄の跡取り武田勝頼(たけだかつより)は、軍勢1万5000兵で長篠城を取り囲んだ。

長篠城は甲府と三河をつなぐ要所のため、家康は即座に織田信長に援軍を要請した。長篠城の城兵500兵だけで圧倒的不利の状態だったが、鉄砲200丁と周囲を山に囲まれた好立地により、なんとかしのいで守ってきた。

ここへきて兵糧を火災で失ってしまい、あと数日しか持たない状況になった。鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は使者に選ばれると、14日未明に闇に紛れて川に潜って囲いを抜け、岡崎城までの65kmを駆け抜け、翌日午後に岡崎城に着いた。

5月15日家康は長篠城からの火急の使者、鳥居強右衛門を迎えると、戦況を聞き、援軍の規模や出兵の予定を告げた。強右衛門(すねえもん)は顔をくしゃくしゃにして喜び、朗報を仲間に伝えたいと家康に伝えると、急ぎ長篠城に引き返していった。

翌16日朝織田信長自身が率いる織田軍3万兵と、徳川軍8000兵の連合軍は、長篠に向けて進軍を開始した。信玄の死から勝頼の反撃までの短い間に、信長は将軍・足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させ、朝倉浅井三好などの反信長勢力を一気に滅ぼしたため、三河に兵力を割くことができた。

同じく16日朝、強右衛門は長篠城に戻る途中、武田軍に捕まってしまった。最初から死を覚悟していた強右衛門は、織田徳川の援軍が長篠城に向っていることを正直に語った。

感心した武田勝頼は、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せと叫べば、お前の命を助け、所領も思いのまま与えてやる」と持ちかけた。強右衛門はこれを承諾したが、実際に城兵たちの前へ立った際、「あと数日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえろ」と大声で叫んだ。

これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて強右衛門を磔(はりつけ)にした。長篠城の城兵たちは、強右衛門の言葉のおかげで援軍が来ると知り、士気を奮い立たせ、見事に城を守り通すことができた。

天正3年5月18日(1575年)強右衛門が死んで2日後、織田徳川連合軍3万8000兵は、長篠城3km手前の設楽原(したらがはら)に着陣した。設楽原は、平らではなく、凹凸や小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なっている。

信長は、最強と言われた武田軍の騎馬隊に対応するため、連吾川(れんごがわ)を堀に見立て、持ってきた丸太を使った柵を城壁の代わりとして、野戦形式の築城を行なっていく。そして、川に沿って丘陵地が幾重にも重なり、相手陣を見渡せない地形を利用して、3万兵の軍勢を途切れ途切れに分散し、布陣させた。



本日はここまでです鉛筆


鳥居強右衛門のように、仲間を捨てず、命をかける武士が大好きで目頭が熱くなります。数えで36歳だったようです。

悲しいけど、誇りに思える出来事ですねクローバー

 

 

次回をお楽しみにビックリマーク
 

 

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