戦国武将 徳川家康の歩み(15) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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今日は家康・信長連合軍が武田信玄の跡取りの武田勝頼軍と戦う長篠の戦いですカブト

それではお楽しみ下さい(^o^)/


元亀4年4月(1573年)徳川家康が32歳になったころ、武田信玄の死去により、武田軍の西上作戦は頓挫(とんざ)した。

これにより、家康も勢力を回復し、三河国(みかわのくに)の長篠城(ながしのじょう)から奥三河までを奪還(だっかん)し、駿河国(するがのくに)の武田領まで脅かすようになった。

天正2年(1574年)家康が33歳になったころ、信玄の後継者、武田勝頼(たけだかつより)は攻勢にでて、明知城(あけちじょう)・高天神城(たかてんじんじょう)を攻略した。

明知城は、信長が治める美濃国(みののくに)の東方に位置する城で、明智光秀の生誕の城とも云われているが、明智長山城の可能性もあり、断定できない。

また高天神城は、家康が治める遠江国(とおとうみのくに)にあり、優美な山の形から鶴舞城(つるまいじょう)の別称を持つ。

その後、家康は遠江国の犬居城(いぬいじょう)を攻めるが、城主天野景貫(あまのかげつら)の奇襲により敗退する。

犬居城は、標高290mの鐘打山(かねうちやま)の山頂にある堅城で、天竜川下流部からの侵入を阻止するのに適した立地である。山頂に置かれた物見曲輪(ものみくるわ)からは、気田川や真下を通る秋葉街道(遠江国から甲斐国へ続く街道)を監視できる。


【長篠の戦い】
天正3年5月(1575年)家康が34歳になったころ、勝頼は1万5000兵の大軍で長篠城を取り囲んだ。

長篠城の徳川軍守備隊は、500兵足らずしかいなかったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、武田軍の猛攻に何とか持ちこたえていた。

しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。5月14日の夜、約65km離れた岡崎城の家康鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を密使として放ち、援軍要請することになった。

強右衛門は、夜の闇に紛れ、寒狭川(かんさがわ)を潜って渡り、武田軍の厳重な警戒線を突破した。その後、休むことなく駆け抜け、15日の午後に岡崎城の家康に面会した。


本日はここまでです鉛筆
家康は、どのように長篠城を守っていくのかはてなマーク

次回をお楽しみにウインク

 


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