みなさん、こんにちは
ソフトブレインのシニアAです
今日は前回の続きで、武田信玄の本隊と決戦「三方ヶ原の戦い」です
それではどうぞ(^o^)/
【三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(2)】
元亀3年12月(1573年)、31歳の徳川家康の元に、ようやく織田信長から佐久間信盛(さくまのぶもり)、平手汎秀(ひらてひろひで)が率いる援軍1万兵が送られてきた。家康は客将や重臣たちと軍議を開き、武田軍の次の狙いをこの浜松城と考え、籠城戦に備えることになった。
一方、武田信玄は、家康の居城である浜松城が、東西420メートル、南北250メートルに及ぶ城郭(じょうかく)であり、多くの曲輪(くるわ、曲輪内には、出入口の門があったり、最前線の堀があったり、物見や攻撃用の櫓(やぐら)などがあったりする)に仕切られた堅城であることと、織田の援軍約1万に徳川軍8,000兵を加え、総勢1万8,000兵の規模まで増加していることを考慮すると、浜松城を攻めるのは得策ではないと考えた。そこで信玄は浜松城から家康を誘い出し、野戦(やせん、野山での戦闘)を行う作戦を立てた。
12月22日、武田軍2万2,000兵は二俣城(ふたまたじょう)を出発すると、浜松城から見えるところまで直進し、急に右へ転進し、浜松城を素通りして、家康を挑発したのち、その先にある三方ヶ原台地を目指した。
家康は、戦わずして通り過ぎる武田信玄に激怒し、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を止め、三方ヶ原の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更した。1,000兵ほどの留守居役を浜松城に残し、徳川・織田連合軍を率いて、浜松城から追撃に出た。
そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着したが、武田信玄は背後などは見せておらず、魚鱗の陣(ぎょりんのじん、「△」の形に兵を配し、突破力に優れる)で正面を向き、万全の構えで待ち構えていた。
眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は、急ぎ鶴翼の陣(かくよくのじん、「V」の形に兵を配し、両翼の間の敵を包囲・殲滅する)の隊形をとった。まもなく両軍の戦闘が開始されたが、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた徳川・織田連合軍は、武田軍の魚鱗の陣に、鶴翼の陣の一箇所を破られ、浮足立ったところを撃破されていった。
徳川・織田連合軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火(かがりび)を焚(た)き、いわゆる空城計(くうじょうけい、兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術。 あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のこと)を行った。この後、心の余裕を取り戻した家康の姿を見て、将兵は皆安堵した。
この三方ヶ原の戦いは、武田軍の死者200人に対し、徳川・織田連合軍は死者2,000人以上を出したと言われている。とくに織田軍の武将である平手汎秀(ひらてひろひで)を失った。全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや、本多忠勝などの武将の防戦により、武田軍も家康本人を討ち取ることはできなかった。
三方ヶ原の戦いのあと、武田軍は浜名湖北岸で越年した後、三河国(みかわのくに)への進軍を再開し、野田城を2月に落とした。ところがその後、武田軍は長篠城(ながしのじょう)まで退き、甲斐国(かいのくに)に撤兵した。
武田軍の突然の撤兵は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため、家康は武田領である駿河国(するがのくに)の岡部に侵攻し放火したり、長篠城を攻めたりした。これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから家康は、信玄の死を確信した。
家康は、長篠城の山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)の奥平氏を調略(ちょうりゃく、はかりごとをめぐらすこと)した。奪回した長篠城には奥平軍をそのまま配し、武田軍の再侵攻に備えた。
【感想】
三方ヶ原に着いて相手の陣形を見た家康は、きっと度肝を抜かれたことでしょう。鶴翼の陣は、薄く取り囲んでも、魚鱗の陣で穴を空けられたらそこで終わりの陣形。よくぞ生きて戻れたと思いました。
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