戦国武将 徳川家康の歩み(12) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

今日は前回の続きで、信長朝倉・浅井軍に報復する「姉川の戦い」ですカブト

 

それではどうぞ(^o^)/


【姉川の戦い】
元亀元年(1570年6月15日)織田信長は、朝倉義景(あさくらよしかげ)を討つため、浅井長政(あざいながまさ)の居城である小谷城(おだにじょう)周辺の長比城(たけくらべじょう)や苅安城(かりやすじょう)の堀秀村・樋口直房を調略(ちょうりゃく、はかりごとをめぐらす)して、長比城・苅安尾を陥落させた。

6月19日、信長は岐阜を出立し、その日のうちに長比城に入った。

6月21日には、信長は虎御前山(とらごぜやま)に布陣すると、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。

6月24日になると、信長自身は竜ヶ鼻(りゅうがはな)に布陣し、小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲した。

6月27日、浅井方に朝倉景健(あさくらかげたけ)の兵8,000人の援軍が到着した。朝倉勢は小谷城の東にある大依山(おおよりやま)に布陣。これに浅井長政の兵5,000人が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000人となった。

6月27日同日、29歳になった徳川家康の兵5,000人が姉川に到着し、織田軍2万人に合流し、織田・徳川連合軍は合計25,000人となった。家康もまた竜ヶ鼻に布陣。織田・徳川の重臣一同を会し軍議を開き、ここで朝倉に対するは徳川浅井に対するは織田と決まり、先鋒から本隊まで割当が決まっていった。

翌28日未明に姉川の浅瀬を前にして、三田村に朝倉勢8,000人、野村に浅井勢5,000人がそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢5,000人が朝倉勢の正面に位置し、織田勢2万人が浅井勢の正面に位置して、双方の布陣が終わった。

午前6時に法螺貝が鳴り響いた。朝倉勢が我先(われさき)に渡河してまっしぐらに徳川勢の壱番隊に飛びかかっていく。槍を構えていた徳川勢の弐番隊も呼応して戦いに参戦していく。

朝倉勢の人数が多く、徳川勢は受け身の姿勢にならざるを得なかったが、徳川の参番隊である石川数正隊が奮戦して盛り返すと、一進一退の攻防が繰り広げられ、激戦となっていった。

これを遠望していた浅井勢も朝倉に後れを取るなとばかりに奮い立ち、先鋒(せんぽう、部隊の先頭)の磯野隊が織田勢に突っ込んでいった。磯野隊は凄まじい勢いで襲いかかり、信長の先鋒の坂井隊はあっという間に壊滅(かいめつ、ひどく壊れなくなる)してしまった。

磯野隊は勝ちに乗じて益々勢いに乗り、織田勢を次々と粉砕した。弐番隊の池田隊、参番隊の秀吉隊も蹴散らされ、磯野隊はあと一歩で信長本陣というところまで迫っていく。

昼頃になり、このとき激戦の中、家康朝倉勢が前後に間延びしていることに気が付き、榊原康政(さかきばらやすまさ)に命じて朝倉勢の側面を衝かせた。これが見事に功を奏し、動揺した朝倉勢を一気に押し返したのである。朝倉勢はこれを機に敗走し始めた。

それを見た浅井勢にも動揺が走った。ここへ両側面から織田安藤隊、稲葉隊が攻撃し、信長本隊も押し出した。浅井勢は、三方から攻撃を受け、あっけなく敗走に転じた。

信長は小谷城から50町(5400m)ほどの距離まで浅井勢を追撃し、麓(ふもと)の家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長木下秀吉を城番として横山城に入れ、今後はここを拠点として浅井氏を攻略していく。

【感想】
浅井長政信長は、信長朝倉氏を攻めないという不戦の約束を結んでいました。信長がこれを破ったため、長政信長を裏切って戦さになりました。浅井氏はこの姉川の戦いで主要な家臣の多くを失い急速に力を落とし滅んでいきます。戦国武者の儚さ(はかなさ)・哀しさが胸に残りました。

 

 

 

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