みなさん、こんにちは
ソフトブレインのシニアAです
今日は家康が浜松に拠点を移す話です
永禄11年(1568年)、27歳になった徳川家康は、尾張の織田信長と北近江の浅井長政(あざいながまさ)と力を合わせ、美濃国を支配していた齊藤龍興(たつおき)を滅ぼした。
その後、伊勢国の北部も支配下に入れた信長は、室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害し、義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途についた。これについても家康は信長に援軍を派遣している。
同年12月、家康は、甲斐国の武田信玄が今川領の駿河への侵攻を開始したため、家臣酒井忠次(さかいただつぐ)を取次役として甲斐国に送った。遠江国(とおとうみのくに、三河国の東側に位置する国)を割譲(かつじょう、割いて譲渡すること)して、大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んだ。
その後すぐに、家康は、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城(ひくまじょう)を攻め落とし、軍を退かず(しりぞかず)に遠江国で越年した。
永禄12年(1569年1月)、28歳になった家康は、信濃国から武田氏の家臣秋山虎繁(あきやまとらしげ)によって、遠江国の大井川の西側への侵攻を受けた。1ヶ月も満たないうちに協定を破った武田信玄とは手切れ(互いの関係を断つこと)となり、敵対関係が改善することはなかった。
この後、家康は今川氏真(うじざね)の居城である駿府城を攻撃して、これを落した。氏真は掛川城(かけがわじょう)に逃げたため、引き続いて掛川城を包囲した。
掛川城の城代の朝比奈泰朝(あさひな やすとも)は、籠城戦(ろうじょうせん、城に立てこもり守備を主体とした戦法)の末に降参して開城した。こうして家康は、氏真を降し、遠江国をほぼ平定した。
この後、氏真は隠居し、妻である早川殿の実家の北条氏を頼って伊豆戸倉城に入り、その後小田原で早川氏より屋敷を与えられ、その地で生涯を全うした。
そして、家康は小田原城の北条氏康(ほうじょううじやす)の協力を得て、遠江国に侵入していた武田軍を退け、遠江国のすべてを支配下に置いた。
元亀元年(1570年)、29歳になった家康は、武田信玄の脅威に対抗するため、三河国の岡崎城を出て、遠江国の曳馬城(ひくまじょう)に移り住んだ。この際、岡崎城は嫡男竹千代(後の信康)に譲っている。
家康は、曳馬城を西南方向に拡張した。その際、曳馬(ひくま)という名称が「馬を引く」、つまり敗北することにつながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めた。
本日はここまでです
浜松の以前の呼び名は曳馬だったんですね
私にとっては意外な事実でした。
これだから歴史は面白いですね
次回をお楽しみに
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