戦国武将 徳川家康の歩み(9) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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みなさん、こんにちはビックリマーク

ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

 

元康が三河国全土の統一を企図してから2年が経ったところからです。鉛筆

 

それではどうぞ(^o^)/


永禄4年(1561年)、美濃国の斎藤道三(どうさん)の長男・斎藤義龍(よしたつ)が急死し、嫡男・斎藤龍興(たつおき)が後を継いだ。これを知ると、斎藤氏と因縁のある織田信長は、美濃国に出兵して戦いを挑んだ(森部の戦い)。

同じ頃、信長は、美濃国の斎藤氏への牽制のため、近江国(おうみこく)の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結んだ。その際、信長は絶世の美女と噂されている妹・お市を継室(けいしつ、後妻のこと)として輿入れさせた。

永禄6年(1563年)、22歳になった松平元康は、松平次郎三郎家康(いえやす)と称した。

永禄7年(1564年)、23歳になった家康は、3年前に企図した三河国全土の統一の半(なか)ばに入っていた。この年、東三河の豪族の田原城の戸田氏や、月ヶ谷城、五本松城、西川城の西郷氏を抱き込んで味方とし、東へ軍を進めていった。その後、今川氏と臣従関係のある上ノ郷城(かみのごうじょう)の鵜殿(うどの)氏を攻め落とした。

ちょうどこの頃、家康は、一計を案じて饒舌(じょうぜつ、おしゃべりのこと)な石川数正を駿府へ行かせ、妻子3人(妻の瀬名姫、長男の竹千代、長女の亀姫)を今川氏真(いまがわうじざね、今川義元の跡取り)から取り返している。

また同じ頃、家康は、織田信長と美濃国の稲葉山城の斎藤龍興(さいとう たつおき、斎藤道三の長男・義龍の子)との戦いに、援軍を送り、信長を助けた。そして、松倉城の坪内利定や、鵜沼城(うぬまじょう)の大沢次郎左衛門に誘降(ゆうこう、降参・降伏を促す)工作を行い、これを成功させた。

永禄8年(1565年)、一方、家康の盟友であり、32歳になった織田信長は、犬山城を陥落させ、織田家当主の織田信清を甲斐国へ落し(逃がすこと)、ついに尾張国全土の統一を達成した。さらに、甲斐国の武田信玄と領国の境界を接するため、同盟を結び、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝院、りゅうしょういん)を娶らせた(めとらせた、結婚させること)。

永禄9年(1566年4月)、25歳になった家康は、牛久保城(城主、牧野氏)を開城させたことにより、東三河を事実上平定した。この年の5月には、宝飯郡(ほいぐん)で繰り広げていた今川氏との攻防戦に勝利し、奥三河(三河国北部)も平定した。これにより三河国全土の統一を果たし、家康は戦国大名となった。

考えてみれば、家康は永禄4年から数えて約6年で統一したことになり、驚異的な速さだと言わざるを得ない。つい7年前まで人質となっていたことがまるで嘘の様だ。この全土統一のタイミングで、軍の見直しを行い、旗頭を石川数正とした西三河衆と、旗頭を酒井忠次とした東三河衆と、旗本と、軍を3グループに分けた三備制への改正を行なった。

同年、朝廷(ちょうてい、天皇を中心とした皇族・公家の集まり)から、藤原氏の一門と認められ、従五位下三河守(三河国の領主)に任命された。同じころ、徳川次郎三郎家康と称した。

永禄10年(1567年5月)、26歳になった家康は、浜松城に移り住んだ。そして9歳の長男竹千代(後の、信康)と、同じ9歳の信長の娘の徳姫とを結婚させ、岡崎城を長男竹千代に譲った。

同年7月に、竹千代は元服して信長より偏諱を賜い(へんきをたまう、大名などが自分の名の一字を与えること)、「信」の字を与えられて信康(のぶやす)と名乗る事に成った。

同年、信長は、美濃国の領主である斎藤龍興(たつおき)を伊勢国の長島に敗走させ、美濃国の平定を進めた(稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口を岐阜と改称し、鎌倉時代からの名城・稲葉山城を岐阜城と改称した。


本日はここまでです鉛筆


近々の目標だった、三河国全土の統一が叶いました。そしてとうとう「徳川家康」を名乗り始めました。これからが楽しみですね音譜


次回をお楽しみにクローバー

 

 

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