戦国武将 徳川家康の歩み(7) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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皆さん、こんにちはビックリマーク

ソフトブレインのシニアAですクローバー

 

 

今日は桶狭間の戦いで義元が討たれた直後で、大高城に取り残された松平元康家康のこと)の話になります鉛筆

 

ではどうぞ(^o^)/


永禄3年(1560年5月20日)、19歳の松平元康は、桶狭間の戦いの中で、丸根砦の守備軍500人余りを撃破し制圧したあと、大高城に戻り待機していた。しかし暗くなっても今川義元の本隊が到着しないため、斥候(ものみ)を放って情報を集めていた。

散発的な情報ではあったが、田楽狭間からおけはざま山のあたりで義元が討たれたらしい。25000人の大軍が負けるとは到底思えなかった。元康の重臣たちも慌てていて意見が定まらなかった。

一時(いっとき、約2時間)ほど経ったころ元康は、大高城の留守居役である朝比奈泰朝が戦いの支度をして城外に集結していると報告を受けた。外に敵がいるはずもなく、標的は自分達と読んで戦いの準備をしていたが、朝比奈泰朝の兵はみな何処かへ行ってしまった。元康は、もう一度斥候(ものみ)を放った。

元康が今いる大高城は、敵中深くもぐり込んだ孤城であるため、もし義元が討たれたとあれば、織田方からいつ攻撃されてもおかしくなかった。元康は夜襲を警戒してかがり火の数を増やした。

一方、織田方の阿古居城(あぐいじょう、別名坂部城)の城主久松俊勝は、織田の殿が今川義元を討ち取ったと聞いて、大高城まで攻め込んできた松平元康のことを気にかけていた。

俊勝は、元康が3歳のときに離れ離れになった生母の於大の方(おだいのかた)と13年前に結婚していた。於大竹千代に対する想いを感じるたびに元康のことを我が子のように考えてきた。

俊勝が考えてみても、義元が討ち死にしたこの状況では、大高城に居る元康は明らかに危険な状態であった。妻の於大と相談し、元康を岡崎城まで逃がすことが一番の良策だということになった。また元康の命を助けることは、結果として織田の殿の味方を増やすことになるのだから不忠にはならないと信じて、俊勝は岡崎城まで道案内をさせるべく、密使を大高城に送りこんだ。

子の刻(ねのこく、午後11時~午前1時)に元康は、突如1人で現れた織田方の若武者の話をはじめは疑っていた。しかし今川義元が討ち取られたこと、本隊5000がその場で潰滅したこと、明日にはこの城も攻撃されるはずなので、自らが岡崎城まで道案内するなどを聞き、少しずつ信じていった。

元康が重臣たちと相談したところ、岡崎城に引き上げるのが良いということになった。元康は、若武者の道案内で死を覚悟しながら岡崎城にむかった。途中、野党も姿を現さず、岡崎城にいるはずの今川方の留守居役も駿府へ撤収していたようで城はもぬけの殻だった。

元康の祖父が整備した岡崎城は、本丸の北側には、持仏堂曲輪(くるわ)、二の丸、北曲輪がある。

本丸の東側には、三ノ丸、東曲輪、備前曲輪、浄瑠璃(じょうるり)曲輪(大手門)がある。

本丸の西側には、坂谷曲輪、白山曲輪、稗田(ひえだ)曲輪(搦手の稗田門)がある。

本丸の南側は、菅生川(すごうがわ)沿いに菅生曲輪がある。

そして本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀をめぐらせてあり、城内の侍屋敷は150軒、侍長屋10棟、足軽小屋400軒、足軽中間長屋30棟、井戸20ヶ所がある。

ちなみに曲輪とは、区画した区域の名称であり、曲輪内には、出入口の門、最前線の堀、物見や攻撃用の櫓(やぐら)などが含まれる。こうしてみても岡崎城は特段立派な城であった。

元康は、古巣の岡崎城の中に入ると城門を固めた。こうして元康は晴れて人質から解放され、三河国における岡崎城主として多方面に影響を及ぼす存在になっていく。



本日はここまでですクローバー

 

生母於大の愛情が元康の命を助けたのですねビックリマーク

 

次回をお楽しみに音譜