戦国武将 徳川家康の歩み(4) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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こんにちはビックリマークソフトブレインのシニアAですクローバー
竹千代と、信長の転機になる戦いが始まりますカブト それではどうぞ(^-^)//


天文23年(1554年)、甲斐国(山梨県)の武田信玄、相模国(神奈川県)の北条氏康、駿河国(静岡県中部)の今川義元は、和平協定(三国同盟)を結んだ。

このことは今川義元にとって、とても重要な意味を持っていた。

西方へ兵を動かしても背後から攻められる事がなくなったのだ。

またこの年、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)織田信長に小物として仕えた。藤吉郎は、その後、清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げて、家中で頭角を現していった。 このころ信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことは逸話となっている。


天文24年(1555年)竹千代が人質になって6年、14歳となった竹千代今川義元の下で元服し、松平次郎三郎元信(もとのぶ)と称した。 今川義元の一字「元」を与えられた。これは今川氏の配下の武将になったことを意昧していた。


弘治3年(1557年)松平元信が人質になって8年、16歳となった元信は今川一門の関口親永の娘である瀬名姫(せなひめ)と結婚した。 今川義元の姪にあたり、のちに築山御前(つきやまごぜん)と称された。

この婚姻は、今川一門に準じた武将になったことを意味していた。 この後、元信は祖父の清康(きよやす)の勇名を慕い、松平次郎三郎元康(もとやす)と称した。


永禄2年(1559年)松平元康が人質になって10年、18歳の元康は、築山御前との間で、長男竹千代(松平信康)が生まれ、翌年、長女亀姫が生まれた。


永禄3年(1560年)、5月12日、松平元康が人質になって11年、19歳の元康にとって、そして27歳になった織田信長にとって、2人の転機となった、『桶狭間の戦い』が勃発した。

戦の始まりは、今川義元が三河国(愛知県東部)、尾張国(愛知県西部)の征服を目的として、全軍2万5千もの大軍を率いて駿河国(静岡県中部)を出発したことだ。 数日後には、尾張国の沓掛城(くつかけじょう)に入場している。

兵1人が持てる兵糧(水、米、塩、味噌などの食料)はせいぜい3日分なので、2万5千もの大軍を食べさせていくための兵糧を運ぶ荷駄兵が数多くを占められていた。


永禄3年(1560年5月18日)松平元康の三河軍は、夜になって丸根砦、鷲津砦の織田軍に戦いを仕掛け、囲いを破って大高城に兵糧を届けた。

一方、織田信長はここ数日、重臣たちと清州城で何度も軍議を開いていたが、野戦(城を出て戦う)か、籠城(城に籠って戦う)かを繰り返すだけで、今日も何も決まっていない。 この時すでに信長は好機を待っていたが、このことは誰にも話してはいなかった。


永禄3年(1560年5月19日)、翌朝午前3時に、元康の三河軍は丸根砦へ、大高城守備軍は鷲津砦へ、総攻撃を開始した。


本日はここまで鉛筆 戦いは始まったばかりですカブト
次回,は一気に戦いの決着がつきます。 是非お楽しみにクローバー