こんにちはソフトブレインのシニアAです
今回は織田信長の青年期を歴史と地理を交えながら綴ります
天文22年(1553年2月)、信長が20歳になったころ、信長の傅役(もりやく、世話係兼教育係)である平手政秀が信長の大うつけの行動を諫めて自害した。
信長は嘆き悲しみ、沢彦宗恩(たくげんそうおん)という僧を開山として政秀寺(せいしゅうじ)を建立し、政秀の霊を弔った。
天文22年(1553年4月)、2か月後、信長は尾張国と美濃国の中立に立つ正徳寺で斎藤道三と会見した。
道三が信長の行列を町外れの小屋でうかがっていると、先頭の信長は上着を袖脱ぎにし、大刀2本を荒縄で巻き、ひょうたんをいくつもぶら下げていた。
まさに噂通りのうつけの風体であった。
しかし信長が率いてきた800人の家臣たちは、見たこともないほどの長い槍や、考えられないほどの数多くの鉄砲を装備し非常に頼もしかった。
寺に入った信長は隠れて正装し、立派な武士の姿になって道三と会見した。
この会見を通して道三は婿殿に感じ入った(婿殿を気に入った)との逸話がある。
弘治2年(1556年4月)、信長が23歳になったころ、斎藤道三は子の斎藤義龍と戦った(長良川の戦い)。
信長は救援のため、木曽川を越えて美濃まで出陣したものの、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三討ち死にの知らせにより、信長自らが殿(しんがり)をしつつ退却した。
永禄元年(1558年)、信長が25歳になったころ、弟の信勝は、2年前の謀反が失敗に終わった際に母の土屋御前の命乞いで助けられたにも関わらず、2度目の謀反を企てた。
信勝を見限った柴田勝家からの密告により、信長自ら病と称して信勝を清洲城に誘い出し、騙し討ちにした。
永禄2年(1559年)、翌年、山口教継の代わりに今川家の岡部元信が鳴海城の城主となった。
信長はこの脅威に対して、鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。
今回はここまで
永禄3年(1560年5月)に起こる大きな転機とは・・・。 次回をお楽しみに