上げ膳据え膳で三食昼寝付き。
忙しくて日々色々振り回される人が憧れる生活ということで
よく言われる言葉ですが、実際にそうなったとして、それだけで
楽しく生きられるでしょうか。
「人はパンのみにて生くるにあらず」
と言いますが、やはり生きがいというものが必要ですね。
別に社会貢献をすることであったり、高尚な何かを嗜む、
などといったことまでは必要ありません。
それこそ犯罪でなければ、その人なりの楽しみがあれば、
それでいいんじゃないかと思います。
逆に、そういうのが全くなくて、ただ死ねないから
生きている、あるいは生かされている、こういうのは
辛いことだと思います。
私は祖母の介護のメイン(と言うかほぼ唯一)の担当になってますが、
要支援だったときから(というか、まず要介護認定というところ
からスタート)足腰が立たなくなり、とある出来事で一足飛びに入院>
要介護4で老健入りという流れになりました。
また、入所中に直腸が筋肉の限界で切れて手術で摘出、
左わき腹にストマという体となり、歯も年から言えば
まだ十分残っているものの、やはり徐々に衰えて抜けて行き、
視力はまだ0.6と0.7を保っているとはいえ、白内障で
見えづらいという、本人としては不自由な体となっております。
とはいえ、年齢は今年で96。
しかも要介護度が4から3に下がるという状態で、
特に内臓関係が丈夫なので、お迎えがくるのはまだだいぶ先、
という印象を、見舞いに行くたびに受けます。
ただ、(いくら年齢のことがあるとはいえ)子供が全くと言っていいほど
タッチせず孫が介護をしていることからもある程度推測はつくでしょうけど、
私自身親愛の情から介護をしているというわけではない状態で、
行けば何度も同じような愚痴を繰り返す、見舞いに来る
人間そのものは関心を払わず、興味が有るのは自分に何をして
くれるかだけ、しかも感謝の心はなし。
ああなっては色んな意味で悪循環で、何のために
生きているのかな、と傍から見ていて思いますし、
本人も何度も「早く死にたい」と言います。
したいことができなくなるのは、加齢による健康状態の変化や
金銭的な問題などがあるとは思いますが、やはり
早いうちから健康向上と蓄財は考えておかないと、と
考えさせられます。
一方で、やりたいことがなく、ただ死を待つばかり、という人は
自分で人生の区切りを選択できるようになったらいいな、
と思ったりもします。
医療費問題やら人権問題やらと話を広げるつもりはありません。
ただ、私自身は生きるだけ生きて、特にやりたいことも
なくなったら「ほなさいなら」と旅立ちたいな、という
死生観になっております。安楽死というよりも尊厳死。
より良く生きたいと願っているならばまだしも、
死にたいと願うような状態になった(あるいはそういう判断さえ
できなくなった)場合、生きることをやめることができるという
道があってもいいと思います。
今は両親とも健康で、体にも気をつかていますが、
そう遠からず親の介護もする必要が出てくることでしょう。
願わくは、単に長生きをするのではなく、それぞれが
生きがいを持って生きて、満足した死を迎えられるように
してあげたいな、と思います。
「親と健康は失って初めてその大事さがわかる」
などとも言いますが、いずれ失われるにしても、なるべく
いい状態を保ちたいものですね。
忙しくて日々色々振り回される人が憧れる生活ということで
よく言われる言葉ですが、実際にそうなったとして、それだけで
楽しく生きられるでしょうか。
「人はパンのみにて生くるにあらず」
と言いますが、やはり生きがいというものが必要ですね。
別に社会貢献をすることであったり、高尚な何かを嗜む、
などといったことまでは必要ありません。
それこそ犯罪でなければ、その人なりの楽しみがあれば、
それでいいんじゃないかと思います。
逆に、そういうのが全くなくて、ただ死ねないから
生きている、あるいは生かされている、こういうのは
辛いことだと思います。
私は祖母の介護のメイン(と言うかほぼ唯一)の担当になってますが、
要支援だったときから(というか、まず要介護認定というところ
からスタート)足腰が立たなくなり、とある出来事で一足飛びに入院>
要介護4で老健入りという流れになりました。
また、入所中に直腸が筋肉の限界で切れて手術で摘出、
左わき腹にストマという体となり、歯も年から言えば
まだ十分残っているものの、やはり徐々に衰えて抜けて行き、
視力はまだ0.6と0.7を保っているとはいえ、白内障で
見えづらいという、本人としては不自由な体となっております。
とはいえ、年齢は今年で96。
しかも要介護度が4から3に下がるという状態で、
特に内臓関係が丈夫なので、お迎えがくるのはまだだいぶ先、
という印象を、見舞いに行くたびに受けます。
ただ、(いくら年齢のことがあるとはいえ)子供が全くと言っていいほど
タッチせず孫が介護をしていることからもある程度推測はつくでしょうけど、
私自身親愛の情から介護をしているというわけではない状態で、
行けば何度も同じような愚痴を繰り返す、見舞いに来る
人間そのものは関心を払わず、興味が有るのは自分に何をして
くれるかだけ、しかも感謝の心はなし。
ああなっては色んな意味で悪循環で、何のために
生きているのかな、と傍から見ていて思いますし、
本人も何度も「早く死にたい」と言います。
したいことができなくなるのは、加齢による健康状態の変化や
金銭的な問題などがあるとは思いますが、やはり
早いうちから健康向上と蓄財は考えておかないと、と
考えさせられます。
一方で、やりたいことがなく、ただ死を待つばかり、という人は
自分で人生の区切りを選択できるようになったらいいな、
と思ったりもします。
医療費問題やら人権問題やらと話を広げるつもりはありません。
ただ、私自身は生きるだけ生きて、特にやりたいことも
なくなったら「ほなさいなら」と旅立ちたいな、という
死生観になっております。安楽死というよりも尊厳死。
より良く生きたいと願っているならばまだしも、
死にたいと願うような状態になった(あるいはそういう判断さえ
できなくなった)場合、生きることをやめることができるという
道があってもいいと思います。
今は両親とも健康で、体にも気をつかていますが、
そう遠からず親の介護もする必要が出てくることでしょう。
願わくは、単に長生きをするのではなく、それぞれが
生きがいを持って生きて、満足した死を迎えられるように
してあげたいな、と思います。
「親と健康は失って初めてその大事さがわかる」
などとも言いますが、いずれ失われるにしても、なるべく
いい状態を保ちたいものですね。



