多重人格の特徴のひとつは、元々の人格とは異なる別の人格が入れ替わって表に出ている時、元の人格は記憶を失っていて、時間の連続性が途切れることだという印象がある。

その際、その複数の別の人格の中には、すべての人格を把握していて、記憶の連続性を保っている人格(内面観察者/インナー・オブザーバー)がいることはわかっている。

こうした「多重人格においては、主人格の時間の連続性は途切れるが、すべてを知っている別人格がある」印象が強いのは、シビル・ドーセットのケースを取り上げたケース・スタディ「失われた私(ロバート・M・リンナー/1955)」、純粋に小説である「五番目のサリー(ダニエル・キイス/1980)」、完全なドキュメントである「二十四人のビリー・ミリガン(ダニエル・キイス/1981)」、多重人格者本人の自著である「ジェニーの中の400人(トリディ・チェイス/1987)」などを、1980年代に読んで得ていた知識とイメージのせいである。

上記の作品群において多重人格の生まれるプロセスは、幼少期に過酷な虐待を受けると、耐えきれなくなった主人格が、苦痛と恐怖の体験を肩代わりしてくれる別人格を生み出すというものだ。この別人格解離の時点で、主人格は、体験したくない状況から逃げるために代替人格を生み出すのであり、後で主人格が再交代しても、それまでの交代していた人格の活動期間の記憶はない。

この場合、交代人格は、主人格を守る防壁である。交代人格は、苦痛や恐怖の記憶ごと引き受けて肩代わりするので、記憶の遮断は非常に強固である。


しかし、実際の臨床においては、表面に出ている別の人格が話したり行動したりしている間、主人格が、まるで後部座席から見ているような、あるいは、頭の片隅で映像を見ているような感覚で、その別人格の言動を認知していることがあり、この場合は、主人格の記憶は途切れない。

さらに、何者かに乗っ取られて、自分の身体や口が勝手に動き、喋っているのを、元の主人格が冷静に(あるいは恐怖を感じながら)見ていることがあり、この場合も意識があるため、自分が何をしていたかの記憶がある。

したがって、元々の主人格が、後から生まれたすべての人格の記憶や行動を把握しているパターン、つまり、主人格自身が内面観察者(インナー・オブザーバー)であるというケースが、現実の臨床において存在する。

ただし、この場合、本来の別人格を分けた目的であるはずの、主人格の防衛規制は働かない。だから、主人格に記憶が残るタイプの多重人格は、幼少時の激しい児童虐待による完全な記憶遮断(乖離)とは異なる発生メカニズムや背景を持っていると考えられる。


中高生や成人以降に多重人格(乖離性同一性障害)を発症する場合、幼少期の虐待ではなく、成長過程や大人になってからの環境ストレスが引き金となって発症するケースが多いという。

家庭内の問題や学校のいじめ、環境不適応などによるストレスやプレッシャー、あるいは大人になってからのトラウマなどによって発症するが、命に関わるほどの絶望的危機ではないため、心を完全に遮断して記憶を飛ばすほどの必要性がなく、意識を傍観者に回して、別の人格にその場をやり過ごさせることになる。

この場合、主人格の記憶の断絶は起きない。

また、幼少期ではなく、中学生以降に初めて明確な人格の乖離が現れる場合、その土台として、パーソナリティ障害やそれに類する重い精神的問題・症状を、既に抱えているケースが非常に多いらしい。

例えば、境界性パーソナリティ障害を抱えている場合、自己像が非常に不安定で空虚感や自己否定感が強く、感情コントロールが極めて困難で、ストレスに対する防衛規制も未成熟なため、もともと土台となるアイデンティティが脆い状態にある。そこに人間関係の破綻や経済的困窮など大きなストレスが加わると、「見捨てられる」という恐怖に心が耐え切れなくなり、乖離というかたちで、自己を分裂させ、非常に攻撃的で強気の人格や冷酷で動じない人格を出現させて乗り切ろうとする。


例えば、札幌市の精神科医の父親が多重人格の娘の殺した遺体の処分を手伝った事件で、この娘は、元々の人格が記憶を失うことなく、境界性パーソナリティ障害によるアイデンティティの脆さから、強い感情やストレスに対処するために役割分担として、新しい人格を出現させていったものと推測される。

現代は、子育ての能力や判断力、情緒や想像力、共感や指導力の欠如した親が子育てをしている時代である。

パーソナリティ障害を患う子どもたちは、ますます増えるだろう。

それに伴って、多重人格(乖離性同一性障害)を発症する人も増えてくると思われる。

やばい時代である。

この時代を生き抜いていく上で、大切なことは、大人自身が、自らの内面に幸せをもたらす努力をすることだ。

危機に陥っているのは、あなただけではない。

あなたは独りではない。