イギリスと日本の類似点といえば、①島国であること、②君主あるいは天皇がいること、③海外植民地を有した列強の一員であったこと、④世界の工場として経済的に世界の覇権を握ったことがあること、⑤それぞれポンド、円という独自の通貨を使用していること、⑥アメリカの同盟国であること、⑦国民性として、あまり本音をストレートに言わず、本音と建前を使い分けることなどであろうか。
逆に、相違点といえば、①英語は国際言語として多くの国々で使用されているが、日本語は日本以外では使用されていないこと、②イギリスは世界大戦で負けたことがないが、日本は第一次では勝者の一員だったが、第二次で敗北したこと、③イギリスは国連の五大国の一つだが、日本はいまだに国連の敵国条項に縛られていること、④イギリスは核保有国だが、日本は核保有の権利がないこと、⑤イギリスはNATOという集団安全保障体制の一員だが、日本にはアメリカとの単独の同盟関係しかないこと、⑥イギリスは西洋の白人の国だが、日本は東洋の黄色人種の国であることだろうか。
上記した類似点も相違点も、誰でも知っている常識的な事実に過ぎない。ここからは、もう少し、話を掘り下げていきたい。
類似性・相違性について考える前に、まずはイギリスとは、日本とはどんな国か、について、もっと深く考えてみたい。
いにしえを考えると、古代の日本は縄文人の国で、古代のイギリスはケルト人の国だった。やがて、日本には弥生人がやってきたし、イギリスにはアングロ・サクソン人がやってきた。
このあたりの歴史的な民族の流入や変転の経緯も、一見すると類似しているように見える。
では、本当にそうか。
そもそも、ケルト人とか縄文人、アングロ・サクソン人とか弥生人とは、どんな人たちか、そのあたりからじっくりと考えてみよう。
氷河期が終わって日本列島がユーラシア大陸から離れて島となったのは、今から1万2千〜1万年前のことで、それ以降、1万〜8000年間を縄文時代(新石器時代)という。
Y染色体ハプログローブで考えると、この縄文時代の最初期に日本列島に辿り着いた人々はC1a1という人々だ。
このC1は冒険遺伝子と呼ばれる。特徴は進取の気性に富み、好奇心に溢れ、臨機応変の適応力がある旅する遺伝子である。
アフリカからユーラシア大陸に出た最古参の人々で、C1a2は西へ向かい、クロマニヨン人と呼ばれた。一方でC1a1は東へ向かって日本列島に辿り着いた。さらにC1bはオーストラリアとニュージーランドまで渡って、アボリジニ、マオリ族となった。
現在C1遺伝子のほとんどは日本に存在している。特にC1a1は日本にしか残っていない。現存率は日本国内男性の5%である。
次に日本列島に辿り着いたのはD1a2という人々だ。
このD1a2は縄文遺伝子と呼ばれる。D系統の特徴は超保守的で、伝統をどこまでも守り、自分のテリトリーからテコでも動かない。採集狩猟民でありながら定住した世界的にも珍しい人々である。
現在D系統遺伝子の80%は日本に集まっている。日本以外ではチベット人の半数がD1a1、アンダーマン諸島にD1a2bの人々が住む島があるが、それ以外の地にD系統はまったく残っていない。特にD1a2は日本にしか存在しない。現存率は日本国内男性の35%である。
つまり、縄文人とは、C1a1とD1a2というユーラシア大陸最古参の希少固有遺伝子を持つ人々で、現在の日本人の40%を占めている。
ちなみに、二種類以上の希少固有遺伝子が混在している地域や国は、世界に日本しかない。
面白いのは、この二つの遺伝子の特徴が、非常に良い組み合わせだったことだ。
D系統は保守的すぎて、他の地域では時流の変化に適応できず滅びてしまった。しかし、多数派のD系統が争いを嫌うため、C1a1は共存することができた。しかも、定住したがるDに対して、Cは新し物好きで旅好きである。活動的なCによって、縄文文明は、北海道から沖縄までのネットワークを1万年にわたって稼働させ、農耕以前に世界史上、極めて特異で先進的な世界最古級の土器文化を生み出した。
人類の歴史において1万年以上もの長期にわたって単一の土器文化が途切れることなく純粋培養され、熟成された地域は他にない。
これには日本列島の地政学的な特異性も大きく影響しただろう。日本は極めて不安定な地盤にあり、地震、噴火、津波に常に襲われた。また、南北に長く、四季も地域ごとに変化に富んでいた。台風、豪雪、雪崩、日照りの害に苦しんだ。これらの困難な生活環境が、縄文人にとって1万年の「進化の揺籠」となり、次の他民族の侵攻に互角に渡り合える能力を育てたのだろう。
そうでなければ、2600年前、大陸から前期弥生人⇨長江人(O1b2/35%)、後期弥生人⇨黄河・漢民族(O2/20%)がやってきた時、縄文人は征服されてしまっていただろう。
しかし、そうはならなかった。縄文人が大陸から来た弥生人に征服・支配されなかったことを証明する証拠は5つある。
①現在に至るまで縄文系(40%)、弥生系(55%)で拮抗していること。
②弥生系でも、大陸では漢民族に征服された長江流域の稲作民(O1b2/35%)の方が、中国の主流派である黄河流域の漢民族(O2/20%)より2倍近くを占めていること。
③現在に至るまで中国語とはまったく文法の異なる土着の日本語が母語として使われていること。(※征服された場合は、征服者の言語が強要されるのが普通である。)
④天皇家の祖先神が天照大神であること。世界的には太陽神は男系となるが、土偶がそうであったように女神信仰を柱としていた縄文人が勝利したから、太陽神という外来の文化を取り入れながら、あくまで女性神を立てたと考えられる。卑弥呼や壱与を立てたのも、女性リーダーでなければ国がまとまらなかったわけだから、この点からも、縄文人中心の国であったことは明らか。
⑤出雲国譲りや越国の翡翠姫、聖徳太子の法隆寺や菅原道真の太宰府天満宮、平将門の将門神社など、殺した敵や無念な死に追いやった敵の怨霊を恐れ、その魂を鎮めようと巨大な神社を建てる御霊信仰や言霊など日本のアニミズムのあり方は、どこまでも敵を冷酷に扱い、その痕跡まで消し去る一神教的な世界の常識とはまったく相容れない。
大陸から来た弥生系が優位であったなら、このような精霊信仰が、国家の政治的方針とはならなかったはずだ。
ここまで日本という国の稀有な特徴について語ってきた。
はっきり言えることは、日本のように、一度も他民族に征服されることなく、石器時代の民族が、そのまま歴史を積み重ねて現在の先進国としての繁栄を築いた国は、他にどこにもないということだ。
D系統の影響か、日本人は世界で最も古いものを大事にする。世界最古の木造建築法隆寺は、いまだに聖徳太子の霊を鎮魂する寺として機能している。今や、世界のどこの国も使わなくなった年号を使い続けている。
そして、世界最古の皇室が機能している。
日本の歴史において、大きな転換期には女性の指導者が活躍した。縄文時代は当然だが、卑弥呼、壱与も、推古天皇も、孝謙天皇(称徳天皇)もそうだ。
今、また大きな転換期を迎えようとしている。たかだか千数百年の伝統にこだわって、国家1万年の計を見誤るべきではない。
さて、次はイギリスの話だ。
イギリスに最初にやって来た民族は、1万2千〜1万年前に来た、土器を持たないが細石器を使う中石器時代人だった。彼らは①I2aという系統の欧州最初期の人々だが、後の集団の渡来により、現在はほとんど残っていない。
また、9000〜8000年前に海水面が上昇し、ブリテン島とアイルランド島が生まれた。
次に6000年前からアナトリア高原にルーツを持つ②G2aがやって来た。彼らは土器を作る最初期の農耕・牧畜民で、先住民のI2aを駆逐し、各地にストーンヘイジなど巨石記念物を建築した。
さらに4500年前、ユーラシア大陸の草原から青銅器を持つビーカー人と呼ばれる③R1b が到来し、数百年でブリテン島の先住民の90%が入れ替わった。
そして3000年前、ビーカー人とは異なる鉄器を有するケルト人(③R1b-L21)がやって来た。彼らはビーカー人もケルト化しながらブリテン島、アイルランド島全土に広がった。
ケルト人は、ブリテン島、アイルランド島にやって来た4番目の民族だが、それ以前の民族は、ビーカー人によってすでに駆逐されており、ビーカー人はケルト人に同化したので、ギリシャ・ローマの人々がブリテン島で会った先住民はケルト人しかいなかった。
古代ローマ軍のブリテン島侵攻は紀元43年、47年からロンディニウムの建設が始まり、70年にはウェールズからイングランド北部までを占領した。
その後、122年には、ハドリアヌス帝が、北部ケルト(ピクト人)の侵攻を防ぐために長城を築いた。これ以降、イングランドとウェールズには、ローマ・ケルト系ブリトン人の融合文化が定着する。
しかし、ローマによる支配が350年と比較的短かったため、フランスのようにケルト語がラテン語化することはなかった。
この時代にローマ文化の刺激を受けて発展したケルト系ブリトン語が、現在のウェールズ語やコーンウォール語の元になっている。
407年、ローマ駐屯軍はブリテン島から撤退し、410年、ローマからの軍事援助が打ち切られた。
5世紀には、ついにアングロ・サクソン(R1b-U106/I1-Z58)が登場する。
彼らは最初は、イングランドのケルト系ブリトン人に傭兵として雇われ、スコットランドから北方の国境を脅かすケルト系ピクト人と戦わせられていた。
しかし、イングランドの肥沃さに気づいたアングロ・サクソンは、ケルト系ブリトン人に反旗をひるがえし、そのまま定住・侵略を開始した。
ブリトン人は必死に抵抗し、一時的な大勝利を掴むこともあった。これが後の英雄アーサーの伝説の元となった。
最終的にはアングロ・サクソンは勝利し、イングランドを制圧した。ケルト系ブリトン人はイングランドからウェールズやコーンウォールへと押し込められた。さらにフランスのブルターニュ(ブリトン人の土地)まで逃れたブリトン人もいた。
アングロ・サクソンの支配は、野蛮なもので、ローマ文化の影響を受けたケルト系ブリトン人の文化を何一つ残さなかった。当然、彼ら自身の言葉であるブルトン語を話すことも禁じた。そして、文字も持たないアングロ・サクソンの野蛮な言語(古英語)を強いられる屈辱にブリトン人は耐えられなかった。
ブリトン人はローマからかつて学んだラテン語の文字を用いてケルト系ブリトン語の表記を行う努力を始めた。
現存する最古のケルト語文学は、6世紀末、アングロ・サクソン人と戦うケルトの戦士たちの勇姿を讃えた叙事詩だ。
8世紀末からは、バイキング、特にデンマーク出身のデーン人による沿岸部での襲撃や略奪が始まった。
この時、ブリテン島北部のスコットランドで最大勢力だったのはケルト系ピクト人だったが、度重なるバイキングとの戦闘で弱体化し、アイルランドから移住してきたケルト系スコット人(ゲール人)と急速に接近し、統一王国が誕生し、ピクト人の言語や文化はスコット人(ゲール語族)に吸収された。
その後、1066年、フランス北部のノルマンディーに定住してフランス化していたノルマン人(I1・R1a )が、アングロ・サクソンの支配するイングランドを征服してノルマン朝を立て(ノルマン・コンクエスト)、同時にケルト系ブリトン人の牙城であるコーンウォールも征服した。
これ以降、支配階層の言語はフランス語となり、アングロ・サクソンの古英語も、フランス語の豊富な語彙を取り入れて中英語に進化した。
ケルト系ゲール人のアイルランドは、この時点では完全に独立を保ったが、100年後、1171年に征服された。
ケルト系ブリトン人のウェールズは、激戦の末、領土の半分を守ったが、その後も侵攻は続けられ、激しいゲリラ戦で抵抗したものの、13世紀末には征服された。
ケルト系ゲール人のスコットランド王国には、多くのアングロ・サクソン貴族が亡命し、ノルマン朝と対立した。1296年、イングランドはスコットランドを軍事侵略し、支配下に置いた。しかし、1314年、スコットランド軍はイングランドの大軍を撃破して独立を死守した。
1603年、スコットランドは、イングランドと同じ王を戴く同君連合となった。
1651年、クロムウェルはスコットランドを武力征服し強制併合したが、その後、王政復古と共に同君連合が復活した。
1707年、スコットランドは、イングランドと合併したが、独自の法律、教育制度、教会を維持し続けた。
以上の歴史的経緯から次のような予測が立てられる。
イギリスの支配階層はノルマン人であり、その支配下にいる一般市民はアングロ・サクソン人である。その下に下層階級としてケルト人がいる。
また、ケルト系ブリトン人はウェールズとコーンウォールに多く、ケルト系ゲール人はスコットランドとアイルランドに多い。
では、その予想と最新の遺伝子調査を比べてみよう。
まず、UK全体で見ると、ケルト系65〜70%、アングロ・サクソン系が30〜35%で、先住民であるケルト系の方が圧倒的に多い。この結果は予想外である。想定以上にケルト系の人口が多い。
地域別でも、アイルランドでは、ケルト系80%、アングロ・サクソン系5%、ノルマン系8%。ウェールズでは、ケルト系70%、アングロ・サクソン系10%、ノルマン系10%。スコットランドでは、ケルト系60%、アングロ・サクソン系15%、ノルマン系20%。イングランドでは、ケルト系35%、アングロ・サクソン系25%、ノルマン系20%。
最もケルト系の少ないイングランドですら、ケルト系は人口比1位の種族なのである。
正直、アングロ・サクソン系は、どこの地域でも少数派である。
しかし、人口比率的には、日本よりも先住民の割合が高いにも関わらず、縄文以来の言語を保持している日本とは異なり、言語的には完全にアングロ・サクソン系の言語である英語が支配的である。
現在、ケルト系言語話者が最も多いのはアイルランドで、ケルト系ゲール語が、第一公用語として憲法で保護されており、人口の40%が話すことができる。
2番目に話者が多いのはウェールズで、道路標識や公文書、テレビ放送なども完全に二言語化されており、人口の17.8%がウェールズ語(ケルト系ブリトン語の派生語)を話すことができる。
スコットランドでは、ハイランド地方や島嶼部以外では話される機会がなく、スコットランド・ゲール語の話者は2.5%しかいない。
コーンウォールでは、コーンウォール語(ケルト系ブリトン語の派生語)は完全に消滅した後に、文献から執念で復活させた希少言語。話者は0.1%。
イングランドには、独自のケルト言語は残っていない。
この状況は、人口比的には少数派の侵略者によって、多数派先住民が征服され、支配される過程で、先住民の文化は徹底して破壊されてきたことを意味する。
このように多重に征服・破壊が繰り返されてきたイギリス史の特徴は、一度も征服されたことのない日本史の特徴とは対照的である。
日本の場合、最初に日本に辿り着いたC1a1、次に日本にやってきたD1a2、さらにO1、O2とすべての人々が、征服も支配もされず、対等に、古いものを守り、新しいものを受け入れながら、現代まで生存してきた。
しかし、イギリスでは、大まかに言って計6回の征服があり、この内一回はローマ帝国の征服で、イングランドとウェールズのみで、最終的には去っていったが、それ以外の5回は先住民を蹂躙して居座った。
その過程で、最初の二つの先住民は完全に滅び、三つ目のビーカー人も、4番目に来たケルトに吸収された。
後は、アングロ・サクソンの侵攻とノルマンの征服だ。
この二つの民族によって、ケルト系の文化は略奪され、破壊された。
皮肉なことは、ケルト系ブリトン人の支配地であるウェールズの語源は、アングロ・サクソンの古英語で外国人(異民族)を意味する言葉であるということだ。
コーンウォールの語源も、古英語で「角のような半島に住む外国人」という意味である。
侵入者であるアングロ・サクソンが先住民であるケルト人を外国人とか異民族とか呼ぶなと言いたい。
上記の甚だしい相違によって、和を尊ぶ日本の平等精神に対して、まったく異なるイギリスの階級社会が生まれた。
イギリスの階級差は、上からノルマン(貴族)⇨アングロ・サクソン(農民)⇨ケルト(下層民)という民族の違いによって生まれ、フランス語(貴族)⇨英語(農民)⇨ケルト系言語(先住民)という言語の違いによって維持された。
やがて、ノルマンとアングロ・サクソンは融合し、英語の使用が一般的となる一方で、ケルト系言語は徹底的に排斥された。
その中で、スコットランド・ゲール語よりも、ウェールズ語の方がしっかり保全されているのは、ウェールズ人のケルト系ブリトン語に対する強い誇り故だろう。
ウェールズ語とコーンウォール語の元となったケルト系ブリトン語は、ローマ帝国支配下のイングランドに住んでいたケルト系ブリトン人の言語だ。ブリトン語はラテン語から多くの語彙を取り入れていたので、野蛮なアングロ・サクソンの古英語に対して、自分たちの言語の方がはるかに文明人の言葉だというプライドがあったのだ。
コーンウォール語が一度滅びたのは、イングランドによる虐殺と弾圧によるものだ。それでもコーンウォール人は、民族の誇りにかけて、自分たちの言語を復元した。
ウェールズ人とコーンウォール人は、一度はノルマンとアングロ・サクソンに奪われた自分たちの英雄アーサーも取り戻した。
「アーサー王は、ノルマンとアングロ・サクソンの支配するイングランドの王ではない」「イングランドに侵攻するアングロ・サクソンと戦ったケルト系ブリトン人の戦士、つまり、我々の英雄だ」と。
問題なのは、遺伝子的に見れば、現在のイングランドにおいてさえ、ケルト系は最大人口であるという事実だ。
支配者が、被支配者に沈黙を強いてきた期間が長く、構造が複雑なため、あまりにも支配の構造が入り組んでしまった。
そして、この支配と被支配の構造は、そのまま大英帝国と植民地の間にも当てはまる。
イギリスの内と外において、同じ支配構造が存在する。イスラエルとガザ(パレスチナ)、南アフリカのアパルトヘイト、インドとパキスタンの対立。みなイギリスが生んだ悲劇である。
しかも、このイギリスの内外構造は、現在の人類文明の全体的構造へとつながる。
私たちは、イギリスで生まれた支配と被支配の逃れ難い構造的なワナに囚われているのだ。
そして、そこから逃れる鍵として対極にあるのが日本文明ではないのか。
そんなことを、つい考えてしまった。