最近、海外、特に欧州の映画やテレビドラマをよく観ている。

理由は、日本の近年の映画やドラマより、自分の感覚にしっくりくるからだ。

一つの理由として、欧州の映画やテレビドラマでは、親子関係や家族の絆をテーマとする作品が多いということがある。

例えば、フランスの作品では、映画では「パリの調香師 幸せの香りを探して(2020)」という作品がある。この作品のメインテーマの一つは、父親と小学生の娘の親子関係である。

アメリカの映画「ギフテッド(2017)」では、叔父と小学生の姪の関係、それに母と娘の関係がテーマとなっていた。

同じく、アメリカ映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(2011)」では、ASDの息子と9.11で亡くなった父親との関係がメインテーマとなっている。

フランスのテレビドラマ「アストリットとラファエル(2019)」の前半シリーズの重要なテーマの一つも、ASDの娘と殉職した刑事の父親との関係である。相棒ラファエルにとっても、父親との関係は重要な問題となる。

もう一つのフランスのテレビドラマ「バルタザール(2018)」でも、主人公と親兄弟、さらに娘との関係は物語の骨格となるストーリーを形成する。さらに前半シリーズの相棒警部エレーヌにとっても、後半シリーズの相棒警部カミーユにとっても家族問題は最も重要なサブストーリーとなる。

イタリアの医療テレビドラマ「DOC あすへのカルテ(2020)」では、それこそ、ほとんどすべての登場人物が家族の問題を抱えていて、患者さんも毎回、家族関係が重要なテーマとなる。

その際、日本の映画やテレビドラマとの最も大きな違いを感じるのは、親子や家族関係の濃密さ、濃厚さだ。

特にラテン系のフランスやイタリアでは、親子関係の濃厚さが目立つ。イタリアなどは、日本人からすると濃厚過ぎると感じるかもしれない。

例えば、日本に住んでいる30代のフランス人やイタリア人などでも、母国の母親と毎日のように電話で話している。日本の親子では考えられないほど関係性が深く近い。

もちろん、映画やドラマは創作なので、現実より理想化されているだろう。しかし、作り手は、一般大衆が求めているストーリーを編み出す。つまり、イタリアの視聴者は、濃厚な家族関係を求めているということを意味している。

親子が愛情ゆえに苦しみ、悩み、兄弟が葛藤し、互いに強烈に意識し合う。そして、年老いた夫婦が、病室で手を取り合って「私を置いていかないで」と見つめ合う。

私は、そういうドラマを観て、羨ましいなと思う。


昔の日本には、特に昭和の日本には、寅さんと桜や柴又の人たちの間で観られるように、切っても切れない夫婦や親子、兄弟姉妹の情愛が、家族の中に、当たり前にあったものなのだが、いつの間にか、海外の映画やドラマでしか観られなくなってしまった。


最近の日本では、家族の絆が、あまりにも脆く儚く消えていく荒涼とした風景が目立つ。誰もが「人は独りで生きていくものだ」と諦めている。

お一人様、親ガチャ、異世界転生、熟年離婚、終活、遺産相続裁判、直葬、墓じまい…。

「独り、ただ崩れていくだけ…。」

かつて、1975年に、そう書き残して自殺した少年がいた。(「ぼくは12歳」岡真史)

「独りきり、泣けても、独りきり、笑うことはできない」と、1990年に歌ったのは中島みゆきだ。(「with」)

どちらも予言的な言葉だ。

2020年代になって、「異世界転生」というワードは、今や、日本語由来のグローバルな用語になりつつあるが、この異世界転生モノでよくあるパターンは、異世界に転生する主人公が、日本社会では大切に感じる人間関係をまったく持っていないという設定だ。特に、親子関係が希薄過ぎる。だから、転生した主人公の多くが、元の世界や家族関係に対して、さしてこだわりや執着がなく、簡単に異世界に順応していく。

例えば、「裏世界ピクニック(2017)」というライト・ノベル(漫画)がある。この物語の中では、主人公の父母や祖父母は全員故人となっている。しかも、その家族は、主人公にとって思い出したくないトラウマの元である。

「最果てのパラディン(2015)」の主人公は、心の底から親と思える存在と異世界で出逢う。地上での前世には悔いしかないらしい。ともかく、前世での親の存在は、まったく感じられない。

悠久の時を生きる「葬送のフリーレン(2020)」には、そもそも親の記憶が、あるのかないのかすらわからない。

「蜘蛛ですが、何か?(2015)」では、主人公には親がいない、というかニセモノの前世の記憶しかない。その記憶の中でも親の記憶はまったく出てこない。

異世界転生モノでなくても、主人公の親はすでにいないという作品は多い。

「柚木さんちの四兄弟。(2018)」という漫画では、主人公たち四兄弟の両親は既に事故で亡くなっている。

「の、ような。(2018)」という漫画でも、主人公の女性は、両親を交通事故で失った縁もゆかりもない兄弟を引きとるところから物語が始まる。

樹木希林の遺作である「万引き家族(2018)」などは、血縁のまったくない擬似家族の物語である。

令和の日本では、血縁ある家族の情愛の物語は、ほとんど見当たらない。

(※例外的な珍しい作品として、上記の「柚木さんちの四兄弟。」は兄弟の絆や亡くなった父母との絆、さらには隣家の家族の絆や隣家との絆がつくられていく様子が描かれている。ある意味、奇跡の物語である。)


令和の日本人は、家族を諦めている。情愛に満ちた家族の一員であることを願うこともない。なぜなら、何があっても見捨てない無条件の愛情で結ばれた家族の絆を信じていないからだ。

誰も親の愛を信じていない。もはや、令和の時代の子どもたちにとっては、親子の情愛はファンタジーの分野になってしまった。叶わない夢の世界ということだ。

夢でもまったく信じられないものはリアリティがなさすぎて楽しみにくい。だから、2010年代以降のこの国の物語では現実世界の家族が出てこない。

「虚構推理(2011)」では、主人公は良家のお嬢さまなのだが、家族は一度も出てこない。主人公の恋人にもまともな父母は存在しない。

「COSMOS (2023)」でも、高校生の主人公の両親は、おそらく普通にいるはずだが、物語の中では存在が示されることもない。

家族が居なければ、普通の生活はおくれない。家族のおかげで普通の生活をおくれているはずだが、その存在は意識から必要ないものとして排除されている。無意識に依存しながら、心では切り捨てている。

なぜなら、飼育や管理はされているが、愛されてはいないから。

少なくとも、本人は愛されているという実感はないだろう。そうでなければ、これほどまでに徹底して存在を排除する理由がない。


欧米において、親子の情愛は、人生の基盤であり、幸福の土台である。しかし、この国では、愛する能力、共感する能力自体が枯渇しつつある。愛されずに育った者は、子どもの愛し方がわからない。世代を降るにつれて、絆は失われてゆく。より孤独は深まり、他者を受け入れる余裕は失われてゆく。

私が思うに、この国に活力が生まれない最大の理由は、そこにあるのではないだろうか。



〈1990年の邦楽 31曲〉

◯B.B.クイーンズ⇨おどるポンポコリン

◯JITTERIN’JINN⇨夏祭り

◯沢田知可子⇨会いたい

◯渡辺美里⇨サマータイムブルース

◯DREAMS COME TRUE ⇨未来予想図Ⅱ

◯森高千里⇨雨/この街

◯竹内まりや⇨シングル・アゲイン/告白

◯松任谷由実⇨ANNIVERSARY 

◯中島みゆき⇨夜を往け/3分後に捨ててもいい/あした/with 

◯KAN⇨愛は勝つ

◯たま⇨さよなら人類

◯BEGIN ⇨恋しくて

◯米米クラブ⇨浪漫飛行

◯徳永英明⇨壊れかけのRadio 

◯尾崎豊⇨ロザーナ

◯THE BLUE HEARTS ⇨情熱の薔薇

◯XJAPAN⇨ENDLESS RAIN 

◯サザンオールスターズ⇨真夏の果実

◯長渕剛⇨しょっぱい三日月の夜/JEEP 

◯井上陽水⇨最後のニュース/少年時代

◯浜田省吾⇨MY OLD 50’S GUITAR/太陽の下へ/詩人の鐘/夏の終り