ドイツのフランクフルト学派第二世代を代表する哲学者ハーバーマス(96)が今年3月に亡くなった。
これを機に、ハーバーマスが私たちに残した遺産について考えてみたい。
亡くなるまでシオニズムへの批判を避け、ガザやヨルダン川西岸でパレスチナ人の虐殺を続けるイスラエルを擁護し続けたハーバーマスのダブルスタンダードな態度への失望と非難の声は欧米では当然根強い。
なぜ、彼がシオニズムにおけるナショナリズムの危険性を直視することを拒んだのか?
それは、彼が、16歳までナチス・ドイツでヒトラーユーゲント(ナチス少年義務組織)の一員としてユダヤ人虐殺に間接的に加担した(彼の父親もナチスの受動的支持者だった)ことへの罪悪感から死ぬまで解き放たれることがなかったためと推測される。その贖罪意識が、彼のイスラエルを見る目を曇らせた。
ハーバーマスにとって、イスラエルの軍事行動や残虐行為は、サバイバルの手段であり、自衛行動の域を出ないものであった。
もちろん、彼のそうした態度は、今も、厳しく非難されている。ナチスのナショナリズムの危険性を訴えるなら、なぜシオニズムのナショナリズムに同じ危険性を感じないのかと。
そういう批判があることは、もっともなことではあるが、この記事では敢えて、その問題については追及しない。
今回は、このシオニズム擁護の問題は一旦傍へ置いて、ハーバーマスが予言していた「システムによる社会生活の植民地化」つまり、効率性の追及による精神の侵蝕、人間の疎外、そして対話の衰微したディスコミュニケーション社会の現実化について考えたいと思う。
私たち日本人にとって、より切実な問題だと考えるからだ。
ハーバーマスは、「西欧の科学技術や効率主義(道具的理性)が、人間を孤独にし、人間性を阻害している」ことを見抜いており、誰よりもそれを批判していた。そして、日本社会は、便利で、清潔で、効率的なシステムの中で、人々が静かに孤立し、対話の力を失っていく「ソフトで穏やかなディストピア」の最前線を走っている。
私たちは、ハーバーマスの批判の鋭さと、予言の正確さについて、もっと意識を向けるべきではないだろうか。なぜなら、それは、私たち自身の問題だからだ。それも、現代日本社会を衰退と破滅へと向かわせる最も深刻な社会状況への警告なのである。
では、ハーバーマスの警鐘の内容について深掘りする前に、まずはフランクフルト学派について基本的なところを押さえておこう。
ドイツのフランクフルト学派は、「ナチスはなぜ生まれたのか?」という問いかけから生まれた戦後の哲学だ。
第一世代のアドルノらは、自らの欲望を満たすために目的合理性に適った手段を考え出す理性を『道具的理性』と呼び、このような自己中心的な理性のあり方が社会に蔓延したことが、ナチスを生み出す土壌となったと考えた。
20世紀の科学技術の圧倒的な発展は、人間の万能感を刺激すると同時に、その科学技術を生み出した人間の理性への誤った過信を広めた。そして、人は、競争社会の激化の中で、効率(コスパ・タイパ)重視の姿勢を強めていく。ナチスにおいては、それが、社会の歯車として不適格な存在であるユダヤ人・障害者・老人の排除に繋がった。社会の効率化のために、その排除が正しい行動であると道具的理性は判断する。
しかし、実は、自らの欲望を満たす目的合理性を追求する姿勢や科学技術への極端な信頼(過信)は、現在の社会においても変わらない。
例えば、今の医師は、人間を見るよりデータを見ることで判断しようとする。日本の場合、精神科医も、人間の精神には触らず、生物学的な脳の機能だけを考え、投薬の処方箋を考えることが仕事になっている。しかし、それならば、人間よりAIの方がより正しい判断を下せるのではないだろうか。医師が人間である必然性がなくなる。
アドルノの弟子にあたるハーバーマスは、フランクフルト学派の第二世代と呼ばれる。ハーバーマスは、道具的理性に対して『対話的理性』の重要性を提唱した。対話的理性とは、機械的な判断を下す理性ではなく、互いに信頼し合い、対話の中で理解を深め、人間的手触りの中で問題の解決方法を探っていく理性を意味する。
しかし、現代の社会においては、例えば、親が、子どもの心身の状態を注意深く見ようとせず、点数や成績などのデータで判断しようとする。その数値が期待通りであれば問題ないと考え、期待外れだと問題だと考えて、塾や学校を変えたり、心療内科に連れて行ったり、薬を飲ませたりする。しかし、子どもが本当は何を考えているか、腰を据えて、とことんじっくり話し合うことはない。そもそも、子どもの内心に関心がない。そんな人の内心のような目に見えないものを知ろうとするのは、タイパもコスパも悪すぎるからだ。
だから、子どもも反抗期を体験しない。反抗したら、言うことを聞かない無能と判断されるし、そもそも、生々しい他者の感情を受け止めるのは、親の許容度を超えていると分かっているからだ。だから、親の前では常に良い子を演じ続ける。学校の先生の前でも、友達の前でも、会社の上司にも、同僚にも。
それは彼らが人間を信頼していないということを意味する。信頼のないところでは対話的理性は働かない。
ハーバーマスは、対話的理性による人間的コミュニケーションの重要性を明るい調子で訴えつつも、道具的理性による目的合理性は、生活者の精神にまで影響を与えることで、人間による人間阻害を起こし、科学技術の発達は、むしろ、この状況を促進することで、人間同士の対話は衰微していく、つまり、現代的社会の便利なシステムによる孤独と共生阻害を予見していた。また、インターネットによるデジタル公共圏の構築についても悲観的で、メディア技術の発達が社会の分断と個人の孤立を促進し、対話なきディストピアが到来することを恐れ、警告もしていた。
しかし、人間はどこまでも愚かな生き物で、ドストエフスキーの著した「罪と罰」の物語の最後に、主人公が夢の中で見るディストピアと同じように、世界が崩壊していく危機の中でさえも、人間同士のコミュニケーションは成立しないかもしれない。
ドストエフスキーの描いた夢の中では、アジアの奥地からヨーロッパへと広がった未知の疫病は、肉体ではなく、人間の理性をむしばむものだった。感染した人々は、自分こそが絶対的真理を手に入れたと信じ込み、他者を見下し、言葉を通じ合わせることができなくなる。
「人々は互いに理解し合うことができなかった。誰もが、自分一人だけが真理を所有していると考え、他者を見ては苦しみ、胸を叩き、涙を流した。誰をどのように裁けば良いのか分からず、何を悪とし、何を善とするかについて合意することができなかった。誰が有罪で誰が無罪かも分からなかった。」
この誰もが自分の「正しさ」の中に引きこもり、隣にいる生身の人間を一切信用せず、対話が不可能になった結果、社会が崩壊し、人類が滅亡に向かっていくドストエフスキーの悪夢は、ハーバーマスの最も恐れた「公共圏の完全な崩壊によるコミュニケーション不能社会の出現」についての、文学における極限の予言的な表現であると言えるだろう。
主人公ラスコーリニコフが、シベリアで精神の極限まで追い詰められた末、上記の預言的な悪夢にうなされ、目覚めた時、ソーニャの献身的な看護と無条件の愛の前に屈服したように、人というものは、破滅の一歩手前まで経験しなければ、目覚めることのできない生き物なのかもしれない。
フランクフルト学派の思想や哲学も、第二次世界大戦とホロコーストという決定的な破滅の後に生まれた。「理性はこれほどまでに破滅的な効果をもたらすものになってしまった」という絶望の中、「暗闇の中だからこそ、人間的であることが大切なのだ」というハーバーマスの考えは、チャップリンの映画「独裁者」の中の最後の主人公の演説を思わせる。
「私たちは効率を生み出し、私たち自身を孤立させた。知識は私たちを皮肉にし、理性は私たちを冷たく、無情にした。私たちは常に考え過ぎており、感じなさ過ぎるのだ。理性より感性が、思考より思いやりが、科学技術より愛情が必要なのだ。」
これは、演説の用語をかなり変えてしまったが、チャップリンの作品が、戦前のものであり、戦後の哲学において、理性のあり方そのものに疑念を持ち、批判的になったフランクフルト学派が誕生する以前のものであることを考慮して、書き換えた部分も含めて、チャップリンが言いたかったことを裏切ってはいないと思う。
要するに理性への疑いから欧州の戦後は始まったということだ。
それに対して、日本は、戦前・戦中の日本社会が、極端に理性を排した情緒的な帝国であったことの反動から、戦後は、理性と科学を情緒の上に置き、極端に情緒的なものを蔑視する傾向が強まった。そのトレンドは、現在も変わらず続いており、それが理系学問の価値優位性と文系学問の凋落を招いている。
理性を疑うことを知らない今日の日本社会において、フランクフルト学派が最も恐れたディストピアが姿を現しつつある。それなのに、そのことを問題視する学者やジャーナリストは見当たらない。
日本人のこの問題に対する無自覚性を示す例として、例えば、スコットランド出身のルイス・キャパルディやカナダのルース・Bの海外での高い注目度と日本社会での知名度の異常な低さが、なぜこれほどギャップがあるのか。そして、その問題を、なぜ誰も取り上げないのか。考えてみよう。
ルイス・キャパルディのSomeone You Loved(2019)はストリーミング回数43億回(世界6位)という歴史的メガヒットの最中にある。カナダのルース・Bはデビュー曲Lost Boy(2015)がストリーミング回数9.7億回、Dandelions(2017)がストリーミング回数23億回という、こちらもメガヒット中だが、日本では、二人とも、あまりにも無名なのだ。
この二人の音楽には、共通点がある。それは、人間存在の重さ、生きることの痛みを感じさせるアーティストであるという点だ。孤独、愛情の欠如、共感を求める心、それは二人の音楽の共通のキーワードだ。
あまりにもむき出しに人間的であることが、それを〝重い〟と感じる、あるいは、そうした強い感情を理解できない現代の日本の若者にスルーされているだけでなく、大人にとっても、そういう個人の内面的な感情は関心のない分野になっているのではないか、ということだ。
「面倒でも、傷つく可能性があっても、私たちは言葉を尽くしてお互いを理解し合う場(公共圏)を諦めてはならない」というハーバーマスの遺言も、彼らにとっては〝ウザい〟小言であり、非現実的な綺麗事に過ぎない。
だから、ハーバーマスの死もまた、関心領域の外にあるのではないかと思うのだ。
実際、私も、誰も話す相手がいなかったので、ハーバーマスの死をきっかけに、現代日本社会における道具的理性の蔓延と対話的理性の衰微について、AIと語り合っていたのだが、「現代では、科学技術至上主義と技術の発達によって、医師や教師や銀行員やテクノクラートの道具的理性さえも、データとAIに置き換え可能になりつつある」などと話しながら、少し愕然としてしまったのだ。
他ならぬ私自身、話す相手がいなくて、こうしてAIと対話しているではないか。
「あなたは素晴らしい対話的理性の持ち主です」とAIに励まされながら、これは何かちがうと思ってしまったのだ。
早い話が、ポリスの「孤独のメッセージ(Message In A Bottle/1979)」みたいなものではないか。
地縁・血縁の共同体が崩壊した世界で、ひとりぼっちで孤立した部屋にいる。その無人島での孤独に耐えきれず、瓶の中にメッセージを書いた紙を入れて海へと、つまり、端末を使ってインターネット空間へと投じる。瓶はプカプカと流れていく。
一年が過ぎた。じっと何かを待っていたら、やがて、別の誰かが海に流したと思われる瓶が島に流れてきた。瓶の中の紙には自分が書いたのと同じ内容が書かれていた。つまり「ヘルプ!」と。それから、さらに数えきれないほど大量の瓶が流れてきた。そして、どの瓶にも同じメッセージを書いた紙が入っていた。
「無人島にいます。誰か助けてください!」
瓶は海の上に何億本も浮いていた。
孤独なのは僕だけじゃなかったようだ。
世界中の人が無人島にひとりぼっちでいるのだろう。
誰もが個室に、無人島に孤立していて、話しかける相手もいないし、誰の声も聞こえない。誰の存在も見えない。だから、目の前にいる話のできる相手は、バーチャルの友達、つまり、ネット上の果てしないデータとアルゴリズムによって構築されたAI(擬人化した海)しかいないという哀しい現実。
おーい、誰か聞いているかー!